岡山県の面積の中心点は加賀郡吉備中央町案田だから、町が「中央」と名乗るにふさわしい。久米郡に中央町があったが、それほど「中央」でもなかった。その南に久米南町があり、比較的「中央」なイメージがある。中央は格好いい感じがするものの、周辺部から狙われやすい。天下人はほとんど周辺部出身である。古くは鎌倉の源頼朝、近代を開いたのは薩摩藩、そしてこのたび首相となったのは広島の岸田さんである。キ・シ・ダ、キシダ、キ・シ・ダ!
話は戦国時代、岡山県久米郡久米南町は各地の大名から狙われていた。広島県の毛利氏、島根県の尼子氏、兵庫県の赤松氏、岡山県南からは宇喜多氏が手を伸ばす。本日は争奪戦の舞台となった城跡を巡る旅に出掛けることにしよう。
久米南町上神目(かみこうめ)に「安盛(やすもり)城跡」がある。町の文化財に指定されている。
城へは東側から比較的容易にアクセスできるが、西側は急峻な谷、高原地帯と低地を結ぶ道が通る。城主については『久米郡誌』に次のように記されている。
草木城主赤松孫五郎則勝が一時居城し、其後天正年間に赤松の一族赤松豊後守が在城中、宇喜多氏に攻略された。
『久米郡誌』によれば、赤松則勝が尼子氏に対する押さえとして草木城に在城したのは永正の末年の頃だという。草木城では永禄年間に尼子軍を撃退しているから、安盛城も何らかの役割を果たしただろう。そして激動の天正年間に宇喜多氏の勢力下となる。城主は赤松氏一族だが、時期を考えれば浦上氏の勢力下にあったと考えるほうが自然だ。
久米南町中籾(なかもみ)に「上殿(うえんと)城跡」がある。町の文化財に指定されている。
高原地帯に睨みを利かせる城である。階段を上った所にある顕彰碑に城主について、次のように記されている。
上殿城主 河島左近将監帷重顕彰之碑
上殿城主河島左近将監帷重は清和源氏小笠原氏の裔なり。阿州上郡を領し河島城を築く。永禄年間帷重の子左近将監帷家は毛利援軍の将として作州弓削庄中籾に上殿城を築き尼子氏と戦う。帷重の孫阿州河島城主監物帷常(兵衛之進)は阿州岩倉合戦にて戦死しついで河島城も陥る。帷常の子帷忠らは上殿城に赴き後帰農す。
平成八年九月十五日後裔相謀り初代城主の顕彰碑を建てるに際しその概略を記して後世に伝う。
これに続いて「源氏河島家系」として、初代清和天皇から二十二代左近将監帷重まで、歴代の名前が記されている。帷は惟だろう。建碑は河島(川島)同族会のみなさんである。河島城は吉野川市川島町川島にある。
注目すべきは、永禄年間に阿波の武将つまり三好勢が美作に進出し、毛利援軍として尼子氏と戦ったことだ。毛利元就と三好長慶は反尼子で連携していた。『久米郡誌』によれば、惟家が城を築いたのは永禄六年(1563)である。ところが永禄十年(1567)十二月に、一族に反逆者があったために落城したという。長慶没後の三好家の混乱に関係するのだろうか。
久米南町上二ケ(かみにか)に「立畑(たてはた)城跡」がある。町の文化財に指定されている。
国道53号を北上していると目の前に見えているのだが、城跡と知らなければ気付かないだろう。遺構が明瞭に残存しており、見応えのあるのが尾根を大きく断ち切る大堀切である。美作と備前を結ぶ交通路を押さえる要衝に築かれている。『久米郡誌』は「宇喜多家の将士屯営の址であらう」と紹介している。
永禄半ばの尼子包囲網(浦上氏、毛利氏、三好氏)、その後の宇喜多氏の台頭という戦国史がこの城から見えてくる。と昔を偲んでいたら、現代の死闘が政界で開戦前夜だった。明後日14日に衆議院が解散するという。岸田包囲網はできているのか。どうやら3A(ab,as,am)が跋扈する相変わらずで、だーめだこりゃの政界である。