教科書から「文化大革命」消える ネットで批判噴出(毎日新聞)
そんな見出しがニュースに登場したのは3年前の1月だった。その文革の再来ではとささやかれているのが、最近の中国における芸能界粛清の動きである。有名なヴィッキー・チャオまでもがターゲットになっているという。教科書から消えたからといって現代に再現する必要はない。
文革発動は55年前のことだから、なかったことにしようと思っても人々の記憶からは消えることがない。しかし、記録に残し語り継いでいかないと、本当に「なかったこと」になるだろう。
本日は政治問題を云々しようというのではなく、権威ある書物に記載された内容が事実と異なっていたとしても、やがて通説として広く信じられるようになることを問題視したい。
西脇市黒田庄町黒田に「黒田官兵衛生誕地」と刻まれた石碑がある。この場所は「姥が懐(うばがふところ)」と呼ばれている。
平成26年に大河『軍師官兵衛』の第6回官兵衛紀行で西脇市が紹介され、荘厳寺や兵主神社などゆかりの地は大いに盛り上がったようだ。説明板を読んでみよう。
「官兵衛の里・西脇市」黒田氏発祥・官兵衛生誕伝承の地播磨国多可郡黒田村
秀吉の天下獲りを支え、稀代の軍師として知られる黒田官兵衛は、江戸時代に編纂された福岡藩主・黒田家の公式記録「黒田家譜」によると、播磨国姫路城で生まれ、官兵衛を輩出した黒田氏は近江国の出自とされており、これが通説となっています。
一方、江戸時代に編纂された播磨の地誌類や記録類には、「黒田官兵衛やその父は、多可郡黒田村(現在の西脇市黒田庄町黒田)生まれ」とするものが多数あり、江戸時代の播磨では、黒田氏や官兵衛は多可郡黒田村の出身と広く認識されていたようです。
また、荘厳寺が所蔵する「荘厳寺本黒田家略系図」には、黒田氏は播磨守護の赤松氏の一族で、丹波との国境である黒田城に居城し、黒田氏を名乗ったことが始まりとされ、官兵衛は8代城主・重隆の次男として誕生したことが記されています。
ここ黒田集落には、黒田氏や官兵衛にまつわる伝承地が多くあります。中世・戦国時代に築かれ、黒田氏9代の居城であったといわれる「黒田城址」、山下にあった城主居館と屋敷群である「多田城址」、多田城に付随する邸宅跡と伝わる「姥が懐」、落城の際、幼い官兵衛と母・於松(おまつ)の別れの地となった「松ヶ瀬」などがあります。
さらに、近くには、別所氏を攻めた三木合戦の際に、秀吉が臣下の官兵衛に戦勝祈願をさせ、その奉納金により改築されたと伝わる「兵主神社」や、秀吉が采配を行った際に座った「太閤腰掛石」の伝承地もあります。
通説とは大きく異なる説ですが、ここには官兵衛生誕・黒田氏発祥の里としての伝承が残っています。
通説とは、黒田家の公式記録で貝原益軒が編纂した「黒田家譜」に記載された内容である。すなわち、黒田氏は佐々木源氏の分流で、近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)を発祥の地とする。福岡という城名は官兵衛の曽祖父(高政)と祖父(重隆)が住んでいた備前福岡に由来する。官兵衛は姫路城で生まれたとされる。
しかし、確たる証拠がなく、黒田二十四騎と呼ばれた家臣らはほとんどが播磨出身で、近江や備前以来の譜代はいない。ならば黒田氏は播磨の土豪と考えるほうが自然だ。重隆が流浪したとか目薬を売ったとか、話は面白いが史実としては疑問だ。
では『軍師官兵衛』で柴田恭兵演じた父職隆はどうなるのか。また官兵衛はなぜ小寺姓を名乗っていたのか。さらに詳しいことを写真に写る説明板で読んでみよう。
姥が懐(城主屋敷跡)
北播磨黒田官兵衛生誕地の会 西脇市観光協会
近年日の目を見た黒田家略系図によると、播磨黒田氏は。赤松円光(赤松則村圓心の弟)を元祖とする赤松庶流の一族です。略系図は観応二年(一三五一)三月圓光の子・七郎重光が多可郡黒田城に移り、父母の為に円光寺を建てると記載をしています。彼が黒田七郎重光と名のり黒田家初代となります。
重光-重勝-重康~・~重隆-(九代)治隆(引用者註:治隆の弟として孝隆を示す)まで二百数十年にわたり存続しましたが、九代治隆の時代、元亀の頃(一五七〇始め)丹波の赤井五郎・川向い石原城の石原掃部助連合軍の突然の襲撃に敗れ、黒田城は滅亡しました。
一方、弟の孝隆はそれより早く姫路城主・小寺美濃守職隆の猶子(養子)となっており、御着城主・小寺政職の家老になっていました。この小寺官兵衛孝隆が豊臣秀吉の参謀役として有名な黒田官兵衛孝高(如水)です。
西側、この場所より北谷川ガードレールに囲まれた田畑の字名が『姥が懐』と残り、天明四年(一七八四)姫路小寺家菩提寺の心光寺の古記録を閲覧、その中に、小寺官兵衛祐隆(よしたか)後改孝隆。氏改め黒田。入道して如水という、播磨の国多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後、黒田氏に改めて、當城に相続して居す〔當城は姫路也)を発見記述し、心光寺和尚入誉と黒田藩中村平市が黒田村の現地調査に訪れ、黒田村古老から多くの聞き取りと、現地案内を受け、その記録が『播磨古事』として現在福岡市博物館の蔵書として存在します。その内容は黒田城壊滅から二百拾数年をへてすべて田畑に変わるも黒田村の故事について尋ねる問いに。答えて云、此多可郡黒田村の多田の古城と申すハ、今の筑前国主のご先祖の城址にて、姥が懐といふハ、其比の邸宅(ヤシキ)の古跡にて、畑の字に残れり。と記述しております。黒田官兵衛は、屋敷があったこの地で生まれたと思われます。
表記に少々おかしい所があるが、文意はつかむことができる。黒田藩士も調査に訪れたというから、荒唐無稽な説ではあるまい。これによると職隆は小寺一族で官兵衛の養父であった。そう考えて何ら問題ない。流浪の身であった重隆や職隆がいきなり姫路城代に抜擢されるのがおかしい。
おそらく『黒田家譜』ではなく、黒田庄の伝承が正しいのではないか。黒田氏発祥の地や官兵衛の生誕地がどこであれ、天下統一戦における官兵衛の功績や福岡藩統治における黒田氏の実績がいささかも揺らぐものではない。しかし公式な史書に記された内容は、通説としての地位を確立するのである。
史実は時間軸に沿って独立して存在しているように見えて、すべて現代と紐付けされている。時の権力者が都合よく引っ張り出したり隠したりする。そうあってほしいという願望の集大成が歴史なのかもしれない。