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大河『麒麟がくる』では、明智光秀の好敵手赤井直正は登場せず、母お牧の方のはりつけシーンもなかった。超高速!丹波攻めである。武将光秀の真骨頂を描くなら、本能寺の変にあらず。「都鄙の面目、之に過ぐべからず」と称えられた丹波攻めなのだ。
丹波篠山市八上内(やかみうち)、殿町、西荘(にしじょう)にまたがる高城山(たかしろやま)に、国の史跡に指定されている「八上城跡」がある。
丹波富士とも呼ばれる美しい山容で、頂上からの眺めも群を抜く。立っているのは昭和六年の「贈従三位波多野秀治公表忠碑」と同七年の「波多野秀治公表忠碑建設記」である。表忠碑の揮毫は毛利元昭公爵という破格の待遇。
大正四年に秀治に従三位が贈られたのは、即位礼ができないほど財政的に苦しかった正親町天皇を支援したからだという。この時、支援を主導したのは毛利元就であり、光秀に攻められた秀治が支援を期待していたのが毛利氏であった。毛利公爵が筆を執るのも当然であろう。
明智光秀は『麒麟が来る』で正親町天皇から「力ある者は皆、あの月へ駆け上がろうとするのじゃ。信長はどうか。こののち信長が道を間違えぬよう、しかと見届けよ。」と直々に仰せつかったほどの忠臣である。なれど秀治より格下の従五位下という位階。ちと不公平ではないのか。
主郭の東方、茶屋の壇近くに「はりつけ松跡」がある。
説明板を読んでみよう。
落城の際、光秀の母、付人腰元等人質の処刑に使った松の跡と伝えられる。
松は昭和初期まで残っていたという。平成八年の大河『秀吉』では野際陽子さん演じる母がはりつけにされた。『麒麟がくる』にそのシーンがなかったのはコロナ禍で撮影できなかったともいえるが、史実としての信憑性が欠けると判断されたからかもしれない。どちらにせよ大河自体がフィクションなのだが。
史料には一次史料、二次史料とさまざまあり、信頼がおける内容もあれば尾鰭の付いた物語もある。有名な太田牛一『信長公記』の記述は信憑性が高いとされているが、光秀母のはりつけは記されていない。
このエピソードの出所は『総見記』である。これは貞享二年(1685)ごろに完成した軍記で、著者の遠山信春は小瀬甫庵『信長記』を読んで書いたという。甫庵信長記自体が面白おかしさを追求しているので、『総見記』も推して知るべしということになる。
八上城を攻めあぐねていた明智光秀は、ライバル秀吉が軍功をあげたことにも焦り、知恵を巡らして次のように波多野秀治に働きかけた。「信長殿が丹波を攻めているのは恨みあっての事ではない。天下統一により平和な世を築きたいだけのことである。いま織田方につけば波多野殿に丹波一国を安堵しようとのお考えである。」この続きは原文を読んでみよう。
『総見記』巻十九「惟任光秀丹州働事付赤井悪右衛門景遠事」
秀治等猶是を疑ひ定めて光秀謀計たらんと更に以て許容せず。光秀又思索を厚ふし重て彼仲人に云遣はすは「然らば秀治疑を散ぜよ。当方謀計にあらざる叚証拠のために光秀が老母を人質とし秀治に相渡すべきの間、秀治此条信伏せしめ大臣家へ御礼申され一家を全ふせらるべし」と云。是に於て秀治兄弟安堵せしめ「其儀ならば和叚の儀相心得たり」と云ふ。既に今五月廿八日漸く和睦相調ひて、光秀方より老母を渡し秀治方へ人質とし八上の城へ入置かしめ、和平弥成就せしむ。是に依って今日六月二日、右衛門大夫秀治、同弟遠江守秀尚等、八上の城を出て光秀対面のため本目の城へ入来す。光秀是を悦び本目の城にて彼兄弟を待うけ双方面談一礼畢て祝儀として盃を出し酒宴に及ぶ時、兼てより光秀方々に隠し置たる多勢俄に競ひ出る。秀治秀尚心得たりとて太刀を抜て相働くといへども、数兵前後を囲で終に秀治秀尚を搦捕り、其外従者十一人都合十三人を相搦て、早速安土へ差上せ此趣言上し畢ぬ。秀治は痛手負て路次に於て死去せしめ畢ぬ。其後秀尚等安土に於て生害の以後丹州の残党等光秀人質の老母を張付に懸て殺し畢ぬ。
『麒麟がくる』で光秀は、降伏した秀治に命の保証をして安土へ向かわせたのだが、信長からは塩漬けになった秀治の首を見せ付けられる。光秀の思いは信長と完全にすれ違ってきた。3年後の本能寺の変を示唆するフラグが立った瞬間である。
しかし『総見記』をよく読むと、秀治を油断させて襲撃したのは光秀であり、秀治はこの時の傷がもとで死んでいる。丹州の残党が怒るのも無理はない。母が殺されたのは光秀の自業自得に思えるし、そうなることが予見できなかったとも思えない。
いずれにしても母のはりつけはフィクションである。籠城していた波多野三兄弟は捕らえられ安土で処刑され、この軍功で光秀は信長から大いに褒められた。史実は単純なのに、本能寺フラグを立てようとするから込み入った物語となるのだ。
ただし、フィクションと割り切るならば、次のような通俗ストーリーのほうが断然面白い。
母「光秀よ、私を人質に出して八上城の城兵を救うのじゃ」
光秀「もったいないお言葉。必ずお救いいたしますゆえ、しばしの御辛抱を」
「さ、波多野殿、信長様は嘘を申されませぬ。これから共に働きましょうぞ」
信長「光秀、そちの働きは見事じゃ。波多野兄弟は見せしめのためはりつけにせよ」
波多野家臣「おのれ光秀め、約束を破りおって。人質を同じ目に遭わせてやれ」
光秀「く、くそう、信長め、この恨み、晴らさでおくべきか」
山麓の春日神社近くの主膳屋敷に「八上城主 前田主膳正供養塔」がある。
豊臣政権の五奉行に前田玄以がいる。今の都知事のように京の市政を担当した能吏で、武将としては地味だが誰からも信頼される実力者だった。それは、関ヶ原で西軍に属したものの、家康から丹波亀山5万石を安堵されたことからも分かる。しかし、慶長七年(1602)に早くも亡くなってしまう。
跡を継いだのは子の茂勝(主膳)だったが、どうも人柄に問題があったらしい。すぐに丹波八上に移封となり、慶長十三年(1608)には家老を手討ちにしたことで改易、隠岐へ流されたという。したがって八上藩での事蹟は大してありそうにもないが、こうして供養されているところに丹波篠山の人々の優しさが垣間見える。
フィクションの人質殺害ばかりが有名になり、史実の家老殺害は話題にならない。虚実入り混じった物語の舞台なった八上城は、前田主膳の後に入った松平康重が篠山城を築くことで廃城となった。
丹波篠山市北新町に「高城(たかしろ)屋敷門」がある。八上城唯一の残存建物とされ、市の文化財に指定されている。
門に掲げられている説明板には、次のように記されている。
この門は、元八上城の屋敷門であったと伝えられる建物です。平成十年五月、篠山市殿町よりこの地へ移築しました。
もう少し説明しよう。八上城内にあったこの門は、篠山城下の武家屋敷門にリユースされていた。一間一戸、切妻造の薬医門で、当初は茅葺だったという。この古い門だけが真実を知っている。いや山麓の屋敷門であれば、山上の惨状など知る由もなかっただろう。
篠山市は令和改元と同時に丹波篠山市と名称を変えた。八上城は丹波市の黒井城とともに丹波攻めの主要な舞台である。市名に丹波が書き加えられたことでいっそう、丹波攻めが地理的に理解しやすくなったかもしれない。