日蓮聖人の守り刀「数珠丸」や幽霊を斬った「にっかり青江」など,備中青江派は数多くの名刀を残している。
倉敷市祐安の住宅地から背後の山に入ったところに「青江の井戸」があり今でも水をたたえている。このあたりが青江鍛冶の遺跡だという。近くには「青江」という地名もある。
鎌倉時代には,備前や大和とともに,朝廷の御番鍛冶として活躍したが,南北朝期に南朝方につき衰退したということだ。
倉敷市だけでなく備前岡山にも青江という地名がある。岡山市の青江町内会発行の『青江史』では,備中青江鍛冶の始祖は備前の青江にいた,という伝説が紹介されている。読んでみよう。
この地に数代続いた刀工がいた。思わぬ名刀を鍛錬(きたえ)たので,丸池に棲む大蛇を試しに斬ってみると,ものの見事にまっ二つになった。しかし,それから後は,池の水がにごりだし,しだいに,いい刀剣ができなくなった。そこで,備中路に移ってしまった。いまに,丸池の水が赤いのは,そのためだし,その付近から鉄屑や炭や吹糟が沢山にでて来る。
万宝全書という刀剣の本によると,「青江の名工則高は,もと備前の人にて,瀬尾刑部四郎と称す。後,備中に移り,元暦年中に歿,年六十余…」とある。
青江鍛冶の始祖は,備前の瀬尾刑部四郎であろう。瀬尾は妹尾で,支那貿易の中心地だったことを思いあわすと,瀬尾刑部四郎が,刀剣鍛冶にちがいあるまい,という想像も出来る。
いささか想像のしすぎのような気がする。則高は青江鍛冶に関連する妹尾鍛冶の始祖かもしれないが,青江鍛冶の発祥の地が備前青江ではあるまい。備前の青江で本当に有名なものは,刀ではなくおいしい鰻,「青江うなぎ」だ。