歴史的評価は移ろいやすいもので,反乱という言葉が抵抗に置き換えられている。朝廷から見ると王化に従わぬ不届き者であっても,現地の民衆からすると圧政と闘う英雄だ。こうした例の代表格が阿弖流為(アテルイ)である。
枚方市牧野阪2丁目の牧野公園(阪上公園)に「阿弖流為の首塚」があり,傍に「伝 阿弖流為・母禮之塚」が近年建立された。
征夷大将軍・坂上田村麻呂に敗れた蝦夷の主将・阿弖流為と副将・母礼は,京に連行された。そして,田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず,二人は河内国植山で処刑される。『日本紀略』は次のように伝える。
延暦二十一年八月十三日、 斬夷大墓公阿弖利為。盤具公母禮等。
此二虜者。竝奥地之賊首也。 斬二虜時。将軍等申云。
此度任願返入。招其賊而公郷執論云。野性獣心。 反覆無定。
儻縁朝威。獲此梟師。縦依申請。放ー還奥地。
所謂養虎遣患也。即捉両虜。斬於河内國椙山。
処刑地の椙山は植山とも杜山とも諸本によって異なる表記が為され,それによって首塚のある宇山地区だとか杉地区の王仁の墓がそれに当たるとか,はたまた八幡市男山だとか,諸説が唱えられている。胴塚があったが年代の異なる古墳だったとか,そもそも地元ではアテルイに関する伝承がなかったとか,真相は五里霧中である。
有力だというか,既成事実化しているのは本日紹介している宇山地区である。地元の方によって『阿弖流為と田村麻呂』という郷土歴史教材が作成されている。発行日は平成19年9月23日。この日は旧暦で阿弖流為の命日になる。伝説であっても,そう信じたらそれが事実となっていく。
今日は地元のイベント「伝,アテルイ・モレ祭」の日だった。牧野公園は多くの家族連れで賑わったことだろう。ピンポイントで示すことができないが,近畿のこの辺りで処刑されたことには違いない。遠く離れた異郷の地で,しかも時代を越えて多くの人に偲ばれていることに,人の優しさが感じられる。
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