今年は皇紀2670年である。ちょうどキリのよかった70年前,神武天皇は大いに顕彰された。太平洋戦争開始前の比較的余裕のあった時期である。日向から大和までの神武東征ゆかりの地を訪れる人も多かった。たとえ,それが伝説であっても,そうあってほしい歴史が大和民族には必要だったのだ。
岡山市南区宮浦に「高嶋宮遥拝所」がある。向こうに見えるのが記紀に登場する吉備の高島である。
日本書紀を読んでみよう。
乙卯年春三月甲寅朔己未。徙入吉備国。起行宮以居之。是曰高嶋宮。積三年間。脩舟楫。蓄兵食。将欲以一挙而平天下也。
これは紀元前666年のこと。3月6日に吉備国に行宮を構えた。これを高島宮という。3年間のうちに船や武器,食糧を蓄え,一挙に天下を平らげようとした。ところが古事記では少し違う。
於吉備之高嶋宮、八年坐。
吉備の高島宮に8年間いらっしゃった,ということだ。3年間か8年間か,ともかく数年間滞在するにしては小さな島に思える。神武天皇自体が架空の人物とされているので,真偽を確かめるまでもないのだが,公式見解ではここが高島宮の故地である。『岡山市史』宗教教育編の高島神社の項を読んでみよう。
昭和十五年に紀元二千六百年の記念式典があげられたとき,この島が神武東征のときの『吉備高島伝説地』として国家的に指定され,これを機会に地元では神武天皇聖蹟高島宮顕彰会を組織して高島神社の再建を行なうた。
それでもなお,高島宮の伝説は各地で語り伝えられている。笠岡市の公式ホームページでは,笠岡諸島の高島が次のように紹介されている。
高島の周囲には有人無人島が転々と浮かび、独自の景色をつくり出している。島の最高峰の神卜山(標高77m)からの景観は特にすばらしく、差出島・明地島・小高島など近隣の無人島をはじめとして、笠岡諸島はもちろんのこと、西は福山方面、東は下津井方面、はるか南方には四国をも望もことができる。
『古事記』『日本書紀』には、神武天皇が東征の途上「吉備の高島宮」に数年間滞在したと記されている。地元では古くから、高島宮とはこの島のことであると考えられてきた。島内には神武天皇にまつわる伝説が数多く残っている。高島神社は神武天皇を祀っており、明治以前には「神武皇帝宮」などと呼ばれていた。神卜山は神武天皇が吉凶を占った場所と言われ、現在その山頂に巨大な「高島行宮遺阯碑」が立っている。この碑は高さ8メートルで、高島宮候補地であることをアピールするために、大正8年(1919)畑中平之丞によって建てられたもので、宮中顧問官・三島中洲の筆になる。山の中腹にある真名井は、神武天皇が天の神にお供えする水を汲んだ井戸と伝えられる。
また,岡山市立高島公民館のホームページでは,地元の高島神社について,次のように紹介されている。
高島神社は、日本書紀によれば、神武天皇が、ここに3年間(古事記には8年間)滞在された所である。神武天皇は、太歳甲寅の年(西暦前7世紀頃)10月5日、高千穂を立たれ軍舟を率いて東征の途にのぼられた時、豊後海峡を通り宇佐・筑紫の国・安芸に寄られ翌年3月6日、吉備の国の高島に行館(かりみや)を造って滞在された所とされている。これを「高島宮」といい、ここでは、一挙に天下を平定しようと舟の準備や、武器の調達や、食糧を蓄えるため過ごされ、戌午(つちのえうま)の2月11日皇軍はついに東に向かい出航し、そして後に神武天皇は大和にて、即位された。
「吉備高島宮」については、沼隈郡説・神島説・宮浦説・高島山説がある。
[高島神社(高島山説)が有力候補地と考えられる理由]
1往古よりここ龍の口山一帯を高島山と称し神武天皇を祭神とする高島神社があったこと。
2海辺が現在JR山陽本線の南あたりにあり軍舟を停泊させるのに港として良い静かな入り江があったこと。
3旭川に沿い古来水陸交通の要衝を占め、出雲との交渉に便利であり大陸の文化(鉄・塩・土器・・・等の製造)も入って来たのではないかと思われること。
4旭川が運んできた土砂によってつくられた高島の一帯は土地が肥え、作物が豊かに実り食糧を蓄えるのにも良かったこと。
5舟を造る木材の調達にも旭川から運搬してこれたこと。
6現在この付近には、大きな古墳が点在していて、古く吉備の中心地として吉備大宰府や備前国府があった所とされていること。・・・・・・・等が挙げられる。
なかなかの説得力である。地元の思い入れもよく伝わる。ここは,公式,非公式問わず,伝説を楽しもうではないか。