今年は「龍馬伝」が大人気だったが、平成16年は「新選組!」に湧いていた。坂本龍馬と新選組とでは幕府に対する立場がまったく違う。新選組は龍馬暗殺の容疑者に見立てられたりするくらいだ。幕末ファンはどうなのだろう。龍馬が好きな人は新選組が嫌いなのだろうか。まとめて好きなのだろうか。今日は新選組のふるさとの話である。
日野市日野本町二丁目に「日野宿本陣」がある。元治元年〈1864年)の建築、都内に残る唯一の本陣として市指定有形文化財である。
この建物の主、佐藤彦右衛門家〈通称:下佐藤)は本来脇本陣であったが、幕末に本陣に昇格している。その事情を日野宿叢書第二冊『図録 日野宿本陣 佐藤彦五郎と新選組』はこのように説明する。
下佐藤家は大政奉還後の慶応四年〈一八六八年〉二月、領主である徳川氏より苗字御免の申渡を受けている。実際に彦五郎がその書取を受取ったのは、官軍から赦免された後の同年六月八日のことである。幕府直轄地でない五街道の本陣等は苗字御免であったが、直轄地の場合それはなかった。幕末の綱紀紊乱の中、賄で苗字御免となる事例が増加するが、直轄地において士分以外の者が苗字御免となることは極めて稀であった。
彦五郎も格式としての本陣への拘りからか、苗字御免となり上佐藤より家格が上になって、慶応四年三月以降、幕府崩壊後の時代の大きな転換点にあって、「本陣」を私称している。これは以前の「御用留」には見られないが、慶応四年三月より十二月に至る「御用留」及び明治二年〈一八六九年〉正月より同三年四月に至る「御用留」の裏表紙に「本陣 問屋名主兼帯 佐藤彦右衛門」と認められたことから知られる。
道をはさんで向かい側には「甲州街道日野宿問屋場・高札場跡」という石碑が立つ。日野宿は甲州道中5番目の宿で前後は府中宿、八王子宿である。問屋場は宿場業務を行う役所で、高札場はお触れなどを掲示する場所だ。
この地に新選組ののぼりが林立しているのは、先述の下佐藤家の佐藤彦五郎が自邸に開いた天然理心流の道場で近藤勇、沖田総司、土方歳三、井上源三郎、山南敬助らが出会った新選組揺籃の地だからだ。佐藤彦五郎の妻は土方歳三の実姉でもある。市内にある歳三の生家跡や墓所は新選組ファンの聖地になっているらしい。
日野宿本陣に「明治天皇日野御小休所阯及建物附御膳水」という石碑が立つ。これについては新選組フェスタin日野実行委員会発行の『新選組のふるさと日野―甲州道中費の宿と新選組―』収録の児玉幸多「甲州道中と日野宿」に説明してもらおう。
さて時代は過ぎて明治十三年(一八八〇)、明治天皇は山梨・三重両県と京都府巡幸のことがあり、六月十六日に東京を出発されたが、貞愛親王を始め太政大臣三条実美以下供奉し、騎兵・夫卒・馬丁等を合わせて約三六〇人、甲州街道を進まれ、府中の大国魂神社に幣帛料を供せられ、新しく架けた多摩川の仮橋を渡られ、日野を経て午後五時に八王子に着かれた。
日野は通過地であったが、午後三時頃佐藤俊正〈彦五郎〉宅で小休止され、八王子に向かわれた。佐藤家は日野宿の本陣を務めた家で、現在も当時の建物と「明治天皇日野御小休所址及建物附御膳水」の記念碑が残っている。
明治天皇は翌年2月に多摩で行ったウサギ狩りの際にも佐藤家で休息をとった。『図録 日野宿本陣 佐藤彦五郎と新選組』には、かつて大田直次郎、蜀山人が同家に来訪した折に描いた「竹の子画賛」を天皇が御覧になった時のエピソードが紹介されている。
蜀山人画題〈落款〉
たけのこの そのたけのこのたけの子の
子の子の末もしけるめてたさ 〈注:繁る目出度さ)
来訪は竹の子の出る季節であり、直次郎がめでたい竹の子の成長にたとえて、彦右衛門家の子孫繁栄・家運長久を祈念したものであろう。句の随所で取り入れられた擬態語「のこのこ」という軽妙な語感には、誰もが思わず吹き出しそうになる。
事実、明治十四年〈一八八一年〉の行幸の際、明治天皇が前年についで佐藤家で再度の休憩をとられたが、襖に書かれていたこの狂歌をご覧になって、声高らかにお笑いになったという。
さすがに人々の結節点となる宿場だけのことはある。ここで育った若者は新選組となって今なお人の心を動かし、ここに泊まった蜀山人は明治天皇の笑いのツボをついたのだった。してやったりか、蜀山人!