神様になった武将は多い。神君家康公などと祀り上げられるのもいいが、庶民信仰の対象となっている加藤清正は幸せだと思う。まったく季節外れだが、清正公のお祭りの話題である。
港区白金台一丁目に「鎮守清正公大神儀」と刻まれた石碑がある。側面下部の「最正山」は、この石碑の左手にある「白金清正公」、正式には「最正山覚林寺」のことである。寛延四年は1751年に当たる。
ここ覚林寺では毎年5月4日、5日に清正公大祭が行われ多くの人で賑わう。この両日に限って授与される「お勝守」を頂くのが私の目的だった。葉菖蒲が入って勝負に勝つという縁起の良いお守りである。今は色褪せたが、頂いた時には緑が鮮やかで清々しい感じがしたものだ。
「清正公」は熊本では「せいしょこ」とアイドル一歩手前のような語感だが、こちらは「せいしょうこう」。いずれにしても、さらりと音読みにされるのは、それだけ多くの人が口にした結果なのだろう。そもそも清正公は、この地とどのような関わりがあるのだろうか。当寺の『参詣のしおり』を読んでみよう。
昔、豊臣秀吉の家臣であった加藤清正(一五六二‐一六一一)は、朝鮮半島における文禄・慶長の役で活躍し、帰朝の折、朝鮮国王子の子(姉と弟)をお連れになり大切に養育しました。やがて成長した弟は、清正の熱心な信仰心を受け継いで博多の寺にて出家をし、日延と号して、安房小湊の誕生寺代十八代の住職となりました。来日当時、弟は四歳、姉は六歳といわれています。
この日延上人(一五八九‐一六六五)は、花の栽培が大変得意であったことから、晩年、白金村の当地をお花畑として幕府より下賜されました。
日頃、清正公に育てられた恩義を感じ、また、公の遺徳を偲んでいらした上人は、この土地に当寺を開創し、清正公の守護仏である釈迦牟尼仏を本尊とし、さらに清正公をも一緒にお祀りされたのであります。
これに対して、『加藤清正のすべて』(新人物往来社)の武田鏡村「清正と法華経信仰」には、次のような指摘がある。
さて、清正が朝鮮から帰国した折、朝鮮人少年を連れてきた。そのうちの一人が本妙寺三世となる日遙(にちよう)上人である。高麗上人、高麗遥師ともいわれた。清正は彼の非凡な才能を看破し、法華経の行学を積ませた。日遙は本妙寺日真、寂照院日乾の教えをうけ、さらに身延山や下総飯高の大檀林に学び、十余年の行学ののち、熊本に戻り、日真、日繞のあとを継いで本妙寺三世となる。
日遙は清正を深く敬愛し、清正逝去の後も追善供養をおこたらず、法華経を清正霊像の胎内におさめ、まるで生きる清正に仕えるように霊像に奉仕したという。
同じように江戸でも清正に育てられた朝鮮人少年が出家して、日延と号し、房州小湊の誕生寺第十八世となったという。この日延上人は清正の遺徳をしのんで、寛永八年(一六三一)に芝白金に覚林寺を開いた。そこには「清正公大尊儀」が祀られたことから、「清正公様」の名で江戸庶民に親しまれた。ちなみに『江戸名所図会』には、
「昔、加藤主計頭清正、朝鮮出兵の時、かの国の王子連枝二人を日本に連れられ沙門となし、兄をば高麗日遙上人と号し、肥後国本妙寺の開山とす。弟はすなわち日延上人なり」
と、日遙と日延は兄弟で、しかも高麗国の王子連枝と記しているが、これは清正が会寧府で臨海・順和のニ王子を捕らえ、手厚く保護し、のちに丁重に返還したという武勇伝から伝承されたものであろう。ともあれ、清正は法華経を行じる者において、人種や身分を超えた理解と愛情をもって接していたのである。
文禄元年(1592)7月、加藤清正は朝鮮の北辺、会寧(フェニョン)で臨海君(イムヘグン)、順和君(スンハグン)を捕虜とする。二人とも第14代国王宣祖の子で特に臨海君は庶出ながらも長男である。王子を生け捕りにするとはさすが清正公という感じだが、実は朝鮮の反乱分子が捕らえて清正に差し出したのだった。このニ王子は秀吉の返還命令によって翌年には解放される。王子等は清正の厚遇に感謝する書状を送ったという。
日遥上人や日延上人はおそらく王族でないのだろうが、陶祖・李参平のように武将が朝鮮から連れ帰った人々だったのだろう。拉致といえば拉致ではある。民族の壁を越えて献身した彼らに私たちはもっと敬意を表するべきだろう。