今でも権力の座をめぐって様々な駆け引きがあるくらいだから、大昔の皇位争奪戦はどれほど激しかったことか。それだからこそ、皇位を譲り合うことは美談として語り伝えられるのだ。
宇治市莵道に「応神天皇皇子莵道稚郎子尊宇治墓」がある。陵墓にふさわしく清らかに整備されている。
応神天皇の皇太子、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に位を譲ろうとして天皇の死後も即位しようとしなかった。『日本書紀』巻第十一(講談社学術文庫版現代語訳)は次のように伝える。
莵道稚郎子
天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天の如く、受け入れることは地の如くでなければならない。上に民を喜ぶ心があって国民を使えば、国民は欣然として天下は安らかである。私は弟です。またそうした過去の記録も見られず、どうして兄を越えて位をつぎ、天業を統べることができましょうか。大王(きみ)は立派なご容姿です。仁孝の徳もあり年も上です。天下の君となるのに充分です。先帝が私を太子とされたのは、特に才能があるからというのではなく、ただ愛されたからです。宗廟社稷(くにいえ)に仕えることは、重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者は君となり、愚者は臣となるのは古今の通則です。どうか王(みこ)は疑われず、帝位について下さい。私は臣下としてお助けするばかりです。
大鷦鷯尊
先帝も「皇位は一日たりとも空しくしてはならぬ」とおっしゃった。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てられた。天皇の嗣(みつぎ)にさいわいあらしめ、万民にこれを授けられた。寵愛のしるしを尊んで、国中にそれが聞こえるようにされました。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従うことができましょうか。
皇位は空いたままで三年になった。漁師が鮮魚の献上品を莵道宮にお届けした。太子は漁師に「自分は天皇ではないのだ」と仰せられて、返して難波に奉らせられた。大鷦鷯尊はまた返して莵道に奉らせられた。漁師の献上品は両方を行き来している間に、古くなり腐ってしまった。
そして太子はついに…。
太子がいわれるのに、「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」といって、ついに自殺をされた。
大鷦鷯尊は麻の白服をきて、悲しみ慟哭されることはなはだしかった。骸(なきがら)を莵道の山の上に葬った。
こうして山の上に葬られたはず太子の墓が上の写真である。ここはどう見ても山の上ではない。このあたりの事情を『宇治市史5東部の生活と環境』は次のように説明する。
宮内省が、この小丘を莵道稚郎子の墓と定めた根拠は、まったく分からない。しかし、治定後ただちに小丘部分のみならず、現在陵墓域となっている広い範囲を、その地籍界とは無関係の一線を画して買収した。従来の小丘の周辺に土を盛って整形し、茶園を廃して樹木を植えるなど、まったく新規に前方後円墳状の陵墓を造成したのである。
折りしもニュースでは、宮内庁の陵墓比定に疑問を呈する調査結果が報じられている。
牽牛子塚古墳 日本書紀通りに隣接して越塚御門古墳
毎日新聞 12月9日(木)21時27分配信
奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳に隣接して、日本書紀の記述通り越塚御門(こしつかごもん)古墳が発見され、考古学的には両古墳が斉明(さいめい)天皇陵と孫の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓であるとほぼ確定した。だが宮内庁は、同県高取町の車木ケンノウ古墳を斉明陵に、その南約80メートルの墳土を大田皇女墓と指定しており、今回の発見でも変更しない方針だ。宮内庁の陵墓の指定や管理を巡り、見直しや国民的議論を求める声が学界から上がっている。
莵道稚郎子の陵墓については、先の『宇治市史』が別説を紹介している。
宇治離宮社の社家であった長者氏の伝えるところでは、朝日山頂が宇治墓であるという。宇治朝日山の山頂は円丘状を呈し、そこには樹木が繁茂していない。しかもそのあたりには、山中に自然に存在したとは思えない卵形の小石が散布している。
そしてこの場所には、江戸中期建立の「莵道稚郎皇子之墓」の石標があるらしい。比定の見直しについて論議してもよさそうだが、そこまでニュースバリューがないのか。
莵道稚郎子に皇位を譲られた大鷦鷯尊は、後に「仁徳天皇」と呼ばれ、天皇像の理想として偶像化されていく。理想の天皇を生み出したのは人徳高き皇太子であった。