森鷗外に現代語訳が出ている。鷗外は古典だが古文か?とも思ったが、むかし教科書に載っていた『舞姫』が読むのにつっかえて途中で放り投げたことを思い出した。もう漫画でも何でもよい。とりあえず鷗外ワールドに入ることが大切だ。今日は鷗外の執筆環境に入ってみよう。
文京区千駄木一丁目の鷗外記念本郷図書館に「森鷗外の観潮楼跡」がある。「森鷗外遺跡」として都指定旧跡となっている。
訪問時には図書館と鷗外記念室があり、図書館を楽しむ子どもたちの姿が多く見られた。鷗外ゆかりの地で本に親しむとは読書環境としてこの上ないと思ったものだ。だが、現在すでに図書館は移転し記念室も休館中である。ここは記念館にリニューアルするということで、鷗外生誕150周年の平成24年にオープンの予定だ。
観潮楼跡から東方面にカメラを向けると、ここが高台であることがよく分かる。鷗外は明治25年からここに住むようになった。文京区教育委員会の『ぶんきょうの史跡めぐり』に解説してもらおう。
二階書斎を増築し、東京湾の海が遥かに見えたので観潮楼と命名した。近くの団子坂はまたの名を汐見坂という。鷗外は、大正十一年六十歳で没するまで、三十年間ここに住んだ。家は昭和十二年借主の失火と戦災により焼失した。藪下道に面した表門跡には、門の礎石や敷石は当時のままである。庭には戦火で焼けた銀杏の老樹が生きかえっている。三人冗語(じょうご)の石(『めざまし草』の匿名文芸批評の執筆者三人鷗外・幸田露伴・斎藤緑雨らの記念写真にこの石があるので名づけられた)はそのままである。鷗外の愛した沙羅の木は、若木が元の場所に植えられ、根布川石もおかれた。(都指定文化財旧跡)
根布川石は「根府川石(ねぶかわいし)」が正しいが、この石と沙羅の木は鷗外のこの詩にゆかりがある。
「沙羅の木」(明治39年)
褐色(かちいろ)の根府川石に
白き花はたと落ちたり
ありとしも青葉がくれに
見えざりしさらの木の花
観潮楼の表門から根津神社へ向う道を「藪下道」とか「藪下通り」と呼んでいる。鷗外の散歩道であり、観潮楼を訪れた石川啄木が通った道でもある。
薮下通りのそばに文京区立汐見小学校がある。昭和2年開校のこの小学校の校歌は「見渡す海路(うみじ)果もなく」と始まる。文学的情緒だけでなく本郷台地が実感できる歴史地理学の舞台でもある。