一番好きな焼酎は「青酎」である。芋焼酎はかくあるべし、と勝手に思い込んでいる。よく行く居酒屋にあるので、毎回飲んでいるが、いったい一杯いくらなのだろう。びっくりするような料金を請求されたことがないので、普通なのだろうが、けっこう幻な焼酎らしい。その青酎を初めて飲んだのは八丈島であった。
東京都八丈島八丈町末吉に「名古の展望」という観光名所がある。
空中撮影かと見まがうようなアングルである。手前の漁港は洞輪沢港、向こうの岬は小岩戸ヶ鼻、その左手の沖の彼方に幽かに青ヶ島が見える。そこが青酎の故郷である。
八丈島に泊まった晩に連れが島の酒屋で買った青酎を開けた。芋の濃さに驚いた。その味が忘れられず帰ってから探すと、高値で取引されていた。まあ、そうだろう。運ぶのが大変だ。
酒の話になると、つい筆の運びが滑らかになるが、今日はまだ本論に入っていない。展望台に特別攻撃艇「震洋」のことを記した碑があった。読んでみよう。
ここ、展望台の真下、八丈町洞輪沢と石積の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年三月、八丈島防衛に備え、海軍の特攻兵器震洋艇五十隻と、祖国の礎たらんと自ら志願した部隊長吉田義彦大尉以下百八十九名の隊員が、民家に分宿し、末吉区民及び海陸軍部隊の熱烈な支援を受けながら、一艇一艦体当りの肉弾攻撃敢行を決意し、日夜猛訓練に励み過した第十六震洋特別攻撃隊の基地跡である。
第十六震洋特別攻撃隊は、昭和十九年九月横須賀海軍水雷学校において編成され、搭乗員五十三名は、海軍兵学校、兵科予備学生、特攻術准士官、飛行予科練習生(若冠十七-十八歳)、出身の精鋭であり、整備隊員、基地隊員には歴戦のベテラン隊員百三十六名が配された部隊である。
震洋艇とは、長さ五メートルの木製モーターボートの艇首に二百五十瓩の炸薬を搭載し、敵艦船に高速で体当りし、搭乗員自らも爆死するという特攻兵器であり、当時の海軍はこの震洋特別攻撃隊に限りなき期待を寄せていた。
昭和十九年十一月第十六震洋特別攻撃隊に、小笠原諸島母島への出撃命令が下り、基地準備隊員は直ちに出発したが、輸送船寿山丸は父島沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、先発隊員五十七名が戦死した。
部隊再編成のあと、こんどは硫黄島への出撃命令が下ったが、同島は敵上陸作戦中の大激戦地であり出撃中止となった。そして昭和二十年三月本土決戦最初の砦と言われた八丈島に布陣したのである。
しかし、昭和二十年八月十五日終戦の詔勅が下り、ここに、熱い、長い、太平洋戦争が終結したのである。あれから数えて四十一年の歳月が流れた、日本はいま驚異的な経済成長を遂げ、自由と平和の民主国家として栄えている。
赤道より、フイリッピン、台湾、日本の太平洋岸を経て、この展望台眼下を通り、アメリカにまで流れている海の中の川・黒潮、その黒潮に思いを馳せる時、かつて祖国に殉じた数多の兵士が、戦争の犠牲者が彷彿として偲ばれるのである。この碑に、当時の戦歴を刻み、戦死した友の霊を奉祭し、心から悠久の平和を祈願するものである。
昭和六十一年十月 震洋八丈会建之
そうであったか、眺めだの焼酎だのと呑気なことが言えるのも平和のおかげだった。この美しい海を見て黒潮を思い、潮の流れが戦場をつなぎ、過去と現在をもつなぐことを示唆している。戦場に立った経験がある方ならではの名文であろう。
戦後41年でこの碑文が書かれたが、それからさらに二十数年の歳月を経た。平和といえば平和だが、今の生活を自ら見直さざるを得ない危機に直面してるといえる。戦後から震災後へと時代が移ろうとしているのかもしれない。
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