こうくり、しらぎ、くだら、と習ったと思ったら、コグリョ、シルラ、ペクチェ、だとか。高句麗、新羅、百済である。読みが色々あるのは、ややこしいのではなく奥が深いのだ。渡来人という実感の湧かない歴史用語も、枚方市に百済王神社、多治見市に新羅神社があると聞くと、確かな事実に思える。では、高句麗の人々はどうだったのか。
日高市新堀に「高麗神社」がある。
「高麗」ならもう少し時代が下って中世ともなるが、扁額をよく見ると小さな「句」があるではないか。ここは「高句麗神社」だったのだ。
近くの聖天院(しょうでんいん、正式には高麗山聖天院勝楽寺、日高市新堀)に「高麗王廟」がある。
ここに眠るのは高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)、高麗神社の祭神でもある。神社の由緒書から若光についての記述を抜粋しよう。
当社は、高句麗からの渡来人高麗王若光を祀る社である。高句麗は紀元前1世紀ごろ建国され、668年に滅びるまで、主に中国東北部および朝鮮半島北部を領有した。若光が日本に渡来した年代は『日本書紀』により天智天皇5年(666)10月と考えられる。高句麗から使わされた使節のなかに「二位玄武若光」の名が記述され、高麗王若光であろうと推測できるからである。
次に若光の名が文献に表れるのが『続日本紀』大宝3年(703)3月「従五位下の高麗の若光に王(こきし)の姓(かばね)を賜う」である。姓とは、それぞれの家柄を定めるために大和朝廷が授与する称号で、王の姓は外国の王族の出身者に与えられた。その後、霊亀2年(716)5月、大和朝廷は駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の七国から高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」を創設した(『続日本紀巻七』)。
この時、郡の長官に任命されたのが、高麗王若光である。
先進的な文化の伝来に貢献した渡来人の集住地、この地こそ古代日本における韓流の聖地だった。
高麗神社の奥に美しい民家が保存されている。国指定重要文化財「高麗家住宅」である。建築年代は17世紀中頃まで遡り得るという貴重なものだ。高麗家は高麗王若光の子孫で、高麗神社の宮司を代々務め、現在60代に及ぶという。
曼珠沙華で有名な巾着田に万葉歌碑がある。万葉集巻第14、東歌の相聞歌(3465)である。
日高市教育委員会が設置している解説板から原文、読み、意味を抜き書きしよう。
巨麻尓思吉 比毛登伎佐気弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎
高麗錦 紐解き放(さ)けて 寝(ぬ)るが上(へ)に 何(あ)ど為(せ)ろとかも あやに愛(かな)しき
高麗錦の紐をといて共寝もしたのに、まだ恋しさが増す。この上、一体何をすればよいのか。ふしぎなほどに愛らしいことよ。
「高麗錦」、字面からも高級で華麗な織物が想像できるが、解説板を続けて読んでみよう。
高麗錦とは大陸から伝えられた技術による高級な錦織りのことで、当時この地は、高麗郷と称し、大陸からの渡来者が高度な文明を周辺諸国に伝えていたから、ここで錦が織られたとする学説がある。
「とする学説がある」とやや心許なげだが、高麗郡は高句麗からの渡来人の集住地である。高級な錦が織られていたとしても不思議ではない。
2016年は高麗郡建郡1300年のメモリアルイヤーである。高麗郡は1896年に合併により消滅したが、渡来人の事績は歴史が記憶している。韓流は単なるブームではない。過去現在を問わず、日本文化の重要な要素である。
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