大河ドラマ『風と雲と虹と』での興世王(おきよおう)役を名優・米倉斉加年が演じた。小学生だったのでよく憶えていないのだが、舌を噛み切って最期を遂げたことだけは強烈な印象となって残った。興世王、それにしても何者だ。皇族のようだが系譜が分からない。自分が天皇になればよいのに、平将門に皇位簒奪をそそのかす。トップの下についてゴソゴソするのが自分に合っているのだろう。
守谷市けやき台三丁目に「今城」がある。「いまんじょ」と読むようだ。
ここは新興住宅地に囲まれ、うららか公園という穏やかな名前が付いている。守谷町教育委員会(当時)の設置した説明板があるので読んでみよう。
今城(いまんじょ)の由来
この公園は、今城の城址公園です。
今城とは、今造られた城(新しい城)という意味で、正しい城の名前ではないと思われるが、昔から「いまんじょ」と呼ばれています。
城の様式が極めて単純・素朴にできているので、戦国時代より以前に築かれた城ではないかと推測されています。
そしてこの城は、一定領主の生活のための城ではなく、戦時用の城砦と見られています。
興国元年(暦応三年・一三四〇)、日本の国内が南北朝に別れて激しく争われていた頃、守谷に居た相馬忠重が、南朝の味方をして城を築いて北畠顕国を迎えたという記録があるので、その時の城がこの今城ではないかと考えられます。
顕国はその後北朝軍に攻められ敗退しています。この城は、南朝の英勇北畠親房が、最後に拠った大宝城や関城と構造が良く類似して、自然を利用した簡単な土塁を造った程度の城です。
いずれにしても、当時守谷の祖先達は南朝側に味方をして、錦の御旗を立てて気勢を挙げ、日本の歴史の流れに大きな役割を果たした由緒深い城であることは間違いないと思われます。
ここに書いてあるように、南北朝時代の古い城で南朝の拠点だったというのが史実なのだろう。しかし、ここは守谷、平将門伝説で知られた町である。守谷市教育委員会が発行した「守谷の平将門伝説」というリーフレットには次のように記されている。
興世王の分城
天慶元年(938)平将門がこの地に興世王の分城を築き、今城(いまんじょう)と称したという伝えがある。
将門の本城とされる守谷城に対して、部下の興世王の分城という位置付けとなったのだろう。守谷城にしろ今城にしろ、史実とは懸け離れていたとしても構わない。守谷は平将門伝説のテーマパークなのだから。