『花燃ゆ』はある意味、吉田松陰が主人公である。その敵役が井伊直弼で、演じるのは高橋英樹だ。松陰VS直弼はこれからの見所の一つだ。直情径行の革命家と保守的で老練な赤鬼との対決である。対立軸が明確になれば物語は面白くなる。下降する視聴率もこれで回復だ。
その井伊直弼のご先祖様は、なんと南朝に味方をしていたという。直弼は勅許を待たずに勝手に条約に調印したと悪く言われるが、井伊家は勤王の家柄なのであった。
浜松市北区三ヶ日町只木に「公家塚」がある。
都から遠く離れたこの地に公家とは、何か事情があるに違いない。旧三ヶ日町教育委員会が設置した説明板を読んでみよう。
この7基の宝篋印塔は、古来公家塚と言われて有名である。恐らく摩訶耶(まかや)の千頭峯城(せんとうがみねじょう)で戦死した南朝公卿の墓ではないかと推定される。
千頭峯城は足利尊氏家来の高師兼(こうのもろかね)に攻められ、延元4年・暦応2年(1339)10月30日に落城した。
公家とは南朝の公卿だった。千頭峯城の守将は井伊氏一族の奥山朝藤(おくやまともふじ)であったが、1339年10月30日に、北朝勢の高師兼に攻められて落城した。この年の8月15日にすでに後醍醐帝は崩御していた。
井伊氏は遠江の豪族である。南朝衰退後は今川氏についていたが、その後、井伊直政が徳川家康の配下となり徳川四天王を呼ばれる。井伊直弼はその末孫である。
南北朝期、遠江の南朝勢力の中心だったのが井伊氏である。その井伊氏が奉じていたのが、後醍醐帝の皇子で、南朝随一の歌人としても知られる宗良親王(むねよししんのう)である。
浜松市北区引佐町井伊谷(いなさちょういいのや)の井伊谷宮(いいのやぐう)に宮内庁管理の「宗良親王墓」がある。
宗良親王は尊澄法親王として120世と123世の天台座主も務めた。元弘の変により後醍醐帝が隠岐に流された際に、法親王は讃岐へ流された。その配流地は、ずいぶん前に「流浪の皇子」でレポートしている。
建武中興により天台座主に戻るが、足利尊氏の離反により法親王は還俗し、波乱の人生が始まる。後醍醐帝は南朝勢の拠点構築のため皇子や公家を各地に派遣する。宗良親王が派遣されたのが、東海道が通る要地、遠江であった。延元二年(1337)のことである。
親王はこの地の豪族、井伊道政の娘重子(駿河姫)を娶り、尹良(ゆきよし)親王と桜子姫を儲けるのである。しかし、駿河姫は若くして亡くなってしまう。このことは「南風競わず」でレポートしている。
ところが、北畠顕家と合流しての上洛失敗、さらには上記のような足利勢による遠江攻略により、駿河安倍城(静岡市葵区西ヶ谷)に移る。
その後、越後寺泊(聚感園・長岡市寺泊二ノ関)、越中牧野(八宮樸館塚・高岡市上牧野)、信濃大河原(御所平・大鹿村大河原釜沢)などへと転進し、いったん吉野に戻り、再び井伊谷に赴いて、そこで亡くなった。
この間、正平七年(1352)には征夷大将軍に任ぜられる。これに関して、南朝方の歌集で準勅撰集とされた『新葉和歌集』(巻十八雑下1234)に次の歌が載っている。
あづまのかたに久しく侍りて、ひたすらもののふの道にのみたづさはりつつ、征夷将軍の宣旨など下されしも思ひの外なるやうに覚えてよみ侍りし
思ひきや手もふれざりし梓弓おきふし我が身なれむものとは
東国に長く暮らして、ひたすら武士とともに歩み、征夷大将軍の宣旨をいただくことになろうとは、私の人生にありえないはずだった。その気持ちを歌を詠んだ。
かつては手を触れたこともなかった弓矢だが、今は寝ても覚めてもそばに置いている。人生とは分からぬものよ。
平和な世に在れば、仏道に励んで安らかな生涯であったろう。あるいは当代随一の歌人と称賛され、華やかな生涯だったかもしれない。それがどうだ。図らずも弓取る身となって中央政権に抵抗したのだ。
なかなかの波乱万丈である。この人生をドラマと言わずしてなんなのか。そうだ。大河ドラマは宗良親王を主人公にすればよい。平均視聴率26%をたたき出した『太平記』の例もある。やってみる価値はあるのではなかろうか。