昨年亡くなった自動車評論家、徳大寺有恒さんは、葉巻と高級車が似合うダンディな方だった。名前に重厚さが感じられ、風貌によくお似合いだった。聞けば、その名はペンネームだそうだ。おそらくは徳大寺公爵家のセレブなイメージと重ねていたのだろう。
美作市粟井中(あわいなか)に「徳大寺大納言の墓」がある。美作市指定文化財(建造物)である。
公家の徳大寺家は、藤原道長の叔父である藤原公季(ふじわらのきんすえ)から出た精華家である。近代にあっては、明治天皇の侍従長を務めた徳大寺実則(さねのり)が有名だ。
では、徳大寺大納言とはどなただろうか。旧作東町教育委員会が作成した説明板を読んでみよう。
粟井中村の古記に
「当村之内正明寺と申す所石塔あり、高さ八尺斗、此石塔は徳大寺前関白公と申伝候、此太閤当地に左遷有其処を御所垣内と云、碑銘に実名等見不申候、年号貞和二年と有慶長之初頃迄は下馬式たり有之由申伝候云々」と。
これは建武の政変の後、後醍醐帝の勅勘を蒙り徳大寺実孝卿は、粟井の庄に流され、垣内御所に蟄居させられ、貞和三年三月八日薨去、字正明寺に葬る。
正明寺殿耀山清光大居士と諡し、五十六才であった。基礎から一五〇センチの立派な五輪塔がある。御所垣内と墓を結ぶ線と旧街道との交わるところを古来下馬オドシと云い、十七世紀の初めまで国司の定めた下馬のしきたりがあったという。
ちなみに徳大寺公は高円の有元祐高の娘を娶り一子徳千代丸をもうけた。
後の新免七条少将則重で新免家の祖である。
ということで、徳大寺実孝(さねたか)卿であることが分かる。ところが調べてみると、実孝卿の没年は貞和三年(1347)ではなく、元亨二年(1322)なのである。建武の政変以前に亡くなっており、美作へ配流されてもおらず、伝承内容と齟齬が生じている。しかも彼は大納言ではなく、中納言であった。
しかし伝説にはよくあること、貴種流離譚の一つと考えたらよいだろう。美作に配流となった実孝は、菅原道真の子孫を名乗る地元の有力武士、美作菅家党の有元氏の娘との間に子を儲ける。この子が新免(しんめん)家の祖、則重(のりしげ)だという。
まず考えてみたいのは、流れてきた貴種がなぜ徳大寺実孝あるいは徳大寺大納言だったのか、である。『角川日本地名大辞典33岡山県』の「粟井荘」の項に、次のような記述を見つけた。
徳治3年と推定される9月日の権僧正憲淳書状案(醍醐寺文書)に「美作国粟井下司分事、先師(覚雅)遺領内候、徳大寺(実孝カ)押妨之間、当時訴訟候之最中候」とあり、当荘下司職は、醍醐寺報恩院の仏性灯油料にあてられていたが、徳大寺(実孝か)の押領により相論となっていたことが知られる。
徳治3年は1308年、徳大寺家は実孝の時代である。実孝はこの地に流されたのではなく、この地を奪おうとしたのである。時代は下って、次のような記述もある。
戦国期になると、応仁2年12月29日の後花園上皇院宣案(案文消息類)に、「美作国吉野郡粟井庄下司職郷名等事」と見え、広岡民部少輔の押妨を停止するよう徳大寺大納言実淳に命じている。
広岡民部少輔は赤松政則配下の武将で、この時期、美作に勢力を拡大していた。これを阻止しようとしたのが徳大寺大納言実淳(さねあつ)である。実孝から数えて7代目の子孫で、太政大臣にまで出世した。今度は、この地を守ろうとしたのが徳大寺大納言ということになる。さらに重要なのは次の記述だ。
天文2年10月20日の徳大寺家当知行目録(徳大寺家文書/富山県史史料編2)に徳大寺家の知行地の1つに、「美作国粟井荘」が見える。
つまり徳大寺大納言の墓は、この地が徳大寺家の所領であったことを、ゆかりの人物に仮託して語り伝えたものだろう。自分たちの住む地域が徳大寺家ゆかりであることを誇りに思いながら墓を守ってきたのであろう。
それでは、新免氏はどうなるのか。美作東部に勢力があった新免氏は宮本武蔵を輩出したことで有名である。実際には養子として跡を継いだのであるが、系譜に連なったことには確かである。
武蔵が生まれたのはどこかという論争が長く続いている。このブログでも播州宮本村説、播州米田村説を紹介した。他には美作宮本村説がある。武蔵の養子である宮本伊織が承応2年(1653年)に加古川市木村の泊神社に棟札を奉納している。それには次のような記述が見られる。
作州之顕氏新免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信後改氏宮本亦無子而以余為義子故余今称其氏
美作の新免氏が子のないまま筑前秋月城で亡くなったので武蔵掾玄信が跡を継ぎ、後に宮本と氏を改めた。武蔵もまた子がなかったので私を養子とした。だから私は今でもその氏を名乗っている。
新免氏が武蔵を養子としたことが分かるが、武蔵の実家については記されていない。翌承応3年(1654)に伊織によって建てられた「宮本武蔵顕彰碑」が、北九州市小倉北区の手向山公園にある。碑文中には次の文字を見ることができる。
播州之英産赤松末葉新免之後裔武蔵玄信号二天
播州の土豪赤松氏の一族である新免氏の後裔が宮本武蔵であることが記されている。新免氏は徳大寺家の落胤ではなく実際には赤松氏の流れなのだろう。
武蔵の著作である『五輪書』は原本が失われ、いくつかの写本が伝わっているが、奥書に次のような記名のあるものがある。
新免武蔵守藤原玄信 あるいは 新免武蔵守藤原朝臣玄信
「藤原」のない記名の写本もあるので確かなことは言えないが、武蔵自身が藤原姓を記しているとすれば、新免氏が徳大寺家つまりは藤原家に連なることを信じ、それを誇りとしていたことになろう。
徳大寺家の貴種流離譚を調べるうちに宮本武蔵にまでたどりついた。貴種ゆかりであることをアピールするのは、地域の人々だけでなく剣豪、自動車評論家など多くいらっしゃることが分かった。