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この冬はインフルエンザの前に、ノロウイルスが流行しているようだ。宮城県では水揚げされたカキからノロウイルスが検出されたため、漁協が先月末4日間、出荷を停止した。
カキに当たるとひどいことに…というイメージがあるが、ノロウイルスにカキが感染して病気になっているのではなく、海水中の栄養といっしょにウイルスも取り込んでいるだけなんだそうだ。要するにカキが悪いのではなく、ウイルスが悪者なのだ。(どっちにしろ腹は痛くなりますが…)
ウイルスと人間の戦いには長い歴史がある。というか、これからもずっと続くだろう。勝負がつかないように見えて、最終的に人間が勝利したウイルスがある。かつて猛威を振るい非常に恐れられていた天然痘ウイルスである。
本ブログのアーカイブ「歴史の動力源、天然痘」では、祈ることで感染を防ごうとしたことを紹介した。祈る気持ちは分かるが感染は防げない。ワクチンによって予防するのがもっとも効果がある。今日は天然痘ワクチンを我が国に初めて伝えた漂流民のお話をしよう。
呉市川尻町東3丁目の清香山光明寺に「川尻浦久蔵の墓」がある。正面に「南無阿弥陀佛」と刻まれている。久蔵は門徒、つまり浄土真宗の信者である。
墓の隣に久蔵を顕彰する小さな石碑がある。読んでみよう。
川尻浦久蔵(一七八八-一八五三)
ロシアに漂着し日本に初めて種痘苗を持ち帰った川尻浦久蔵ここに眠る。
平成二十年九月吉日 呉市立川尻小学校PTA
短い説明だが、久蔵の功績を一言で表現すればこうなる。だがPTAとしては、久蔵が日本に帰還するまでの物語も、子どもたちに知ってもらいたいに違いない。とりわけロシア人に救助されるまでの4か月半に及ぶサバイバルは、まさに「生きる力」のお手本である。
川尻村生まれの久蔵は、兄を頼って大坂に船働きの出稼ぎに行っていた。時に文化七年(1810)11月22日、酒や醤油など「下りもの」を積んで江戸に向かう勧亀丸が大坂を出航した。乗組員は久蔵を含め16名であった。
ところが、紀州沖を通過中の23日夜から暴風雨にみまわれ、数日間の奮闘むなしく船は制御不能となってしまった。風と潮に船をまかせること数十日、夏のような暑さの場所に運ばれたという。後年、久蔵は述懐している。『川尻町誌(資料編)』「魯斉亜国漂流聞書」より
地球図を相考候所此辺暖帯赤道ニ相当可申、里程凡千五百里程之儀ニも可有之と察申候
世界地図で考えると、このあたりは熱帯の赤道になるだろう。距離はおよそ1500里ほどだと推察される。地理的な見方・考え方を身に付けているようだ。海水を蒸留して真水を確保し、藁や藍玉を灯油で揚げて食べたとも言う。
実際何処まで行ったのかは不明だが、その後、風を得て北西に針路をとり、北海道の松前を目指すこととした。ところが、着いたのは小さな二つの島。久蔵らは八丈島かと思ったが、実際にはロシアのカムチャツカ半島沖のカメントロスケという島(コマンドルスキー諸島)だった。ともかく上陸して人家を探すことにした。文化八年(1811)閏2月9日のことである。
ところが、探せども探せども人影は見えず、仲間は寒さに力尽き死んでゆく。食料が手に入らず、雪に醤油をかけて食べたこともあった。久蔵自身も気力を失い雪中で休んでいたところ、雪が崩れて埋まってしまう。顔が出せるよう仲間が掘ってくれたが、全身は掘り出せなかった。
命運尽きかけたかに思われた3月10日、仲間がロシア人を伴って戻ってきた。こうして16人いた乗組員のうち、久蔵を含め7名が救助されたのである。
その後、カムチャツカ半島に渡り、シベリア各地を転々とすることとなる。最も西に至ったのはイルクーツクであった。この間、久蔵はロシア語だけでなく、様々な知識を身に付けた。その中に種痘術があった。
文化10年(1813)9月26日、久蔵は箱館(函館)に上陸し、幕府役人の尋問を受けた。久しぶりに踏む日本の土であった。ロシア産の衣服や小物を持ち帰ったが、その中に次のようなものがあった。『川尻町誌(資料編)』「魯斉亜国漂流聞書」より
一、ヒイドロ 五枚ヲロシヤ産 但、ヒイドロノ内ニ疱瘡之種入置御座候
種痘術を学んだ久蔵は、種痘苗をガラス瓶に入れて持ち帰っていたのである。ロシア人医師から「これであなたの国の人たちを救っておやりなさい」と言われたかどうかは知らないが、日露関係史に特筆すべき人道的支援と言えよう。
故郷の川尻村に戻ることができたのは、文化11年(1814)5月13日のこと。持ち帰った品々は広島藩に留め置かれた。久蔵は地元の庄屋らに、これまでの経緯を語って聞かせた。それを記録し、同年中に藩の郡役所に提出したのが、「魯斉亜国漂流聞書」である。
提出に当たって庄屋は、次のような添状を書いている。『川尻町誌(資料編)』「久蔵聞書提出に付き添状案」より
右疱瘡種最早壱ヶ年ニも相成、此上帰候ても寒気ニ至り候ハヽ用立不申様ニ可相成も難量旨、久蔵内々申候ニ付、万一疱瘡療治等為仕試候様ニとの御思召ニも被為在候ハヽ、一日も早ク右ヒイトロ右疱瘡種入有之ひいとろヲ御下ケ渡被為遣候而ハ如何可有御座候哉、此段極内々奉申上候
お預けしている種痘苗は、ロシアから持ち帰って一年にもなります。この上、冬が来て寒くなれば、お返しいただいても効き目が失われているやもしれません。そのように久蔵が申しておりますので、万一、疱瘡の治療をお試しになるとのお考えでございますれば、一日も早く種痘苗の入ったガラス瓶をお下げ渡しくださいますようお願いいたします。いかがでございましょうか。この件、ごく内々に申し上げます。
ところが、広島藩庁からは何の音沙汰もなく、歳月は過ぎていった。文政八年(1825)になって、この地方に疱瘡が流行した。子どもたちが次から次へと命を落とした。惨状を目の当たりにして、久蔵はさぞかし悔しかったことであろう。
種痘が本格的に普及することとなるのは、緒方洪庵が大坂に「除痘館」を設立した嘉永二年(1849)以後のことである。ずいぶん時間のロスが生じてしまった。久蔵による種痘が実施されていたら、また違った歴史があったかもしれない。残念ながら、もしもがないのが現実である。
ここは、求めに応じなかった藩役人の不明を非難するよりも、天然痘ワクチンを我が国に初めて伝えた久蔵の功績と、種痘の有効性を理解し「一日も早ク」と訴えた庄屋を称えるべきだろう。