初めて飛行機に乗ったのは大人になってからだが、地上を離れた瞬間の感動は今も忘れていない。人には本能的に空への憧れがあると思う。この大空に翼を広げ翔んでゆきたいのだ。
日本航空史という分野があるか知らないが、その歴史は、天明五年(1785年)の「表具師幸吉」の滑空にまでさかのぼれよう。さらに調べると、それ以前に亡くなっている平賀源内が、飛行船を研究したという記録が見つかった。
さぬき市志度の自性院常楽寺に「源内さんお墓」と示された平賀源内の墓がある。志度は源内の出身地である。東京都台東区橋場二丁目にも「平賀源内墓」があり、こちらは国の史跡である。
源内は安永八年12月18日(1780年)に江戸で獄死した。「何ぞ非常に死するや」と杉田玄白が慨嘆したように、話題には事欠かない人生だった。奇想天外な発明で知られ、最も有名なのが「エレキテル」である。ちなみに日本エレキテル連合は、静電気を研究する団体ではなく、平成26年に「ダメよ〜、ダメダメ」を流行らせたお笑い芸人である。
源内は日本のダ・ヴィンチと呼ばれる。どちらも科学から絵画まで、マルチな才能を発揮した天才である。ダ・ヴィンチの有名なスケッチにヘリコプターやハンググライダーがある。どうやら天才は飛行に興味を持つらしい。
源内の飛行船については、天明八年(1788)の櫟斎老人『平賀実記』という一代記に、次のような記述がある。
源内帰府して手を廻し需(もとめ)たる道具どもを知人へ土産として贈りし其中に空中を乗(のる)大船あり。紅毛(こうもう=オランダ人)の細工にて長崎へも来らぬ珍敷(めずらしき)珍器也。然るに源内密(ひそか)に蛮人に便(たよ)り、買取て船を畳(たたみ)て荷物にし、江戸へ持参し神田辺(あたり)の御大名へ土産として差上げしとぞ。此船へ人の乗(のる)事五六人を限る也。又空中にて風止る時は外に風根と云物を下り踏鞴(たたら)にて吹上るなり。風の根は皮にて拵(こしらえ)、常は畳みて置と也。
この記述とともに「空中を乗る大船」のイラストが描かれている。本体は船の形をしており、気球のような「風袋」と、おもりのような「ケンスフル」が付属している。とても飛びそうにはない。源内が土産として差し上げた大名は田沼意次だというが、折りたたみ式飛行船は伝存していない。エレキテルは現存しているというのに。もしかすると、源内なら空飛ぶ船くらい考えただろう、というウワサに過ぎなかったかもしれない。
荒唐無稽と思える飛行船にも、何らかの情報ソースはあるはずだ。モンゴルフィエ兄弟が熱気球の有人飛行に成功したのが1783年だから、源内と同時代のヨーロッパでは、気球の研究がさかんだったのだろう。それをオランダ人が、はるか日本にも語り伝えたとも考えられる。
源内の飛行船は、現代の航空技術発達の端緒となることもなく、歴史の挿話の一つでしかない。それでも源内を語り伝えることには大きな意味がある。さぬき市では毎年「平賀源内発明くふう展」が開催され、アイデアいっぱいの作品がたくさん応募されるそうだ。
昨年、源内賞に選定されたのは「熱中症対策帽子」で、ソーラーパネルを電源としてプロペラを回すとともにタンクから水を送り出し、気化熱を利用して冷風を発生させるという優れモノである。源内の進取の気象は、平成を生きる子どもたちの励みとなっている。
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