江戸時代最大の百姓一揆とは、どれだろうか。51名が処刑された津山藩の山中(さんちゅう)一揆(享保十一、1726)だろうか。一万六千人が蜂起した盛岡藩の三閉伊(さんへい)一揆(弘化四、1847)だろうか。今日は、老中罷免、藩主改易の処分となった郡上藩の郡上(ぐじょう)一揆(宝暦四、1754)を紹介しよう。
郡上市白鳥町長滝に「宝暦義民碑」がある。昭和30年に建立された。同様な顕彰碑は市内各地に建てられている。
消費税を10%に上げるのか凍結するのか、増税は庶民の暮らしに直結する大問題である。郡上一揆も増税問題から始まった。今は教育無償化だとか言うから「そりゃ、しゃあないな」と納得もするが、江戸時代には税が住民サービスとして還元されないから、百姓は当然増税反対の声を上げる。
宝暦4年7月20日、郡上藩は徴税方法を「定免(じょうめん)法」から「検見(けみ)法」に変更することを村々の庄屋に通達した。定免法は定額制、検見法は従量課金制と考えればよい。一概にどちらがよいとは言えないが、郡上藩は変更に備えて農民の隠し田をことごとく摘発していたのである。したがって増税となるのは必至であり、すでに受忍限度に達していた百姓は反対の意思を訴えることとした。
郡上市八幡町柳町に「八幡城御蔵会所跡」がある。ここに藩の税務をつかさどる役所があった。
8月10日、千人ほどの百姓が御蔵会所に押しかけ、十六ヶ条の願書を差し出した。驚いた藩は願いを聞き入れるとともに、訴えを江戸の藩主に伝えることを約束し、その旨を記した書状を百姓に渡した。この年は特段の動きもなく、騒動はこのまま収束するかに思えた。しかし、江戸藩邸では反撃の準備をしていたのである。
藩主金森頼錦(かなもりよりかね)は、老中本田正珍(まさやす)や若年寄本多忠央(ただなか)らに働きかけ、幕府の名を借りて増税を強行することとした。宝暦5年7月18日、天領笠松代官所の美濃郡代青木安清は、村々の庄屋に改めて検見法の実施を通達した。これに納得できない百姓は8月、江戸藩邸に新たに十七ヶ条の願書を差し出したが、藩当局は関係者を厳しく取り締まり、要求を力で抑え込もうとした。
藩への訴えが通らないことを知った百姓は、ついに非常手段に打って出た。駕籠訴(かごそ)である。幕閣に直接窮状を訴えたのである。百姓の代表として前谷村定次郎ら5人は江戸へ行き、11月26日早朝、当時実力第一の老中酒井忠寄(ただより)の登城を待った。当時の記録「御訴訟書写」を読んでみよう。『詳説郡上宝暦義民伝』より
既に其の日も亥の十一月廿六日酒井左衛門尉様、中にも高位と聞および、御登城を相待所に、其勢夥敷(おびただしく)あたりを払ふて草木之風になびくごとく也、両人是を見て肝をけし、おんころ/\せんだりやまとうぎそわかとくわんねんし、此度は思ひ切たる事なれば、抛身命を多勢之中へわって入、こは、憚(はばかり)成る人悲人とけちらかされて目もくらみ、又立直し飛入ば前之ごとくに誡められ、其時声をも惜(おしま)ずなきければ、忝(かたじけなく)も駕籠之内よりも宿所を尋、屋敷江遣し可置(おくべし)之遂御意を、御屋敷にこそ着にけり。
亥年(宝暦5年)の11月26日、酒井忠寄様は幕閣でも高位と聞き及び、御登城を待っておりましたところ、その行列は威勢があって草木も風になびくかのようでした。訴人はこれを見て肝をつぶしましたが、「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」と真言を唱え、これは覚悟の上のことだからと、命がけで行列に飛び込みました。「なんだ無礼な!人非人(にんぴにん)めが」とけちらかされて目がくらみました。立ち直ってもう一度飛び込みましたが、前と同じようにはねつけられました。そこで大声で泣きましたところ、おそれおおくも駕籠の中から、宿泊場所のお尋ねと屋敷へ出向くようにご指示があり、酒井様のお屋敷に行ったのでございます。
こうして訴えは幕府に届き、宝暦6年10月24日には、北町奉行依田正次による本格的な取り調べが行われた。その後、駕籠訴をした5人は帰国を命じられ、庄屋方で軟禁状態に置かれた。一揆勢は団結を確認し合ったものの、幕府による裁定もなく膠着状態が続いた。こうして宝暦7年が過ぎ翌8年、藩内のある村で起きた騒動に紛れて、前谷村定次郎ら2人が脱走して江戸に潜伏した。
2人は地元の仲間と連絡を取り、次の一手を打つ。箱訴(はこそ)である。4月6日、歩岐島村治右衛門ら6人が目安箱に訴状を投じた。これにより老中酒井忠寄がついに動き、7月20日、福山藩主で寺社奉行の阿部正右(まさすけ)をリーダーとして裁判チームが編成された。幕閣から百姓まで様々な立場の者が取り調べを受け、10月29日に幕府関係者、12月25日に郡上藩関係者にそれぞれ判決が言い渡された。
これにより老中本田正珍は免職、若年寄本多忠央は改易、美濃郡代青木安清は免職、郡上藩主金森頼錦は改易となった。いっぽう百姓側は前谷村定次郎を含め4人が獄門、10人が死罪、牢死した者は19人いた。
郡上藩には青山氏が入り、幕末までこの地を治めた。百姓が反対していた検見法は結果的には導入されたが、藩当局は、百姓からの訴えにより定免法を適用するなど、柔軟に対応したという。つまり、金森氏と青山氏の違いは、民衆の訴えを聴く姿勢があったかどうかである。金森氏の場合、いったん約束したことを幕府の手を借りて(虎の威を借りて)ひっくり返そうとしたことで、民心が決定的に離反した。
ひと頃、内閣の一つや二つは吹っ飛ぶ、と言われたモリカケ問題が総選挙で話題にならなくなり、安倍内閣は健在だ。しかし、国民の声を聴こうとする姿勢が首相にあったかどうかは、選挙結果に如実に表れるに違いない。