よぉ、久しぶり。元気?と敦賀駅前で手を上げているのは、地元のツヌガアラシトさんである。実はそこまで知り合いではないのだが、彼はいつもこうして親しく迎えてくれる。今日は彼が教えてくれた敦賀の古代史を紹介しよう。
敦賀市白銀町の敦賀駅前に「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)像」がある。写実性に定評のある彫刻家、進藤武松氏の作品である。
ツヌガアラシトの「ツヌガ」から敦賀(つるが)という地名が生まれた。「敦賀」発祥の人なのだ。彼は朝鮮半島南部の出身である。我が国とどのような関わりがあるのか。『日本書紀』巻第六垂仁天皇二年是歳条に次のように記されている。
一に云ふ。御間城(みまき)天皇の世に、額に角有る人、一の船に乗りて越国の笥飯浦(けいのうら)に泊れり。故れ其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。問ひて曰く、何れの国の人ぞ。対へて曰く、意富加羅(おほから)国王の子、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ。伝に日本国に聖の皇有すと聞りて以て帰化(まゐおもむ)く。穴門(あなと)に到る時に、其の国に人有り、名は伊都都比古(いつつひこ)、臣に謂(かた)りて曰く、吾れは則ち是の国の王なり。吾を除きて復た二の王あらむ。故れ他処(あたしところ)にな往きそ。然るに臣熟(つらつら)其の人と為りを見るに、必ず王に非じといふことを知りぬ。即ち更た還りぬ。道路を知らずして島浦に留連(つたよ)ひつつ、北の海より廻りて、出雲国を経て此間に至れり。是の時天皇の崩に遇へり。便(すなわ)ち留りて活目(いくめ)天皇に仕へて三年に逮(な)りぬ。天皇都怒我阿羅斯等に問ひて曰く、汝の国に帰らむと欲ふや。対へて諮さく、甚だ望(ねが)はし。天皇阿羅斯等に詔せて曰く、汝道に迷はずして速く詣らましかば、先皇に遇ひて仕へまし。是を以て汝が本国の名を改めて、追ひて御間城天皇の御名を負りて、便ち汝が国の名と為よ。仍りて赤織絹を以て阿羅斯等に給ひて、本土に返しつかはす。故れ其の国を号けて弥摩那(みまな)国と謂ふ。其れ是の縁なり。是に於て阿羅斯等給はれる赤絹を以て己が国の郡府に蔵(きす)む。新羅人之を聞きて兵を起して至り、皆其の赤絹を奪ひつ。是れ二国の相怨む始なり。
一説に崇神天皇の御代に、ひたいに角のある人が船で越国笥飯浦(けいのうら)に着いた。だからこの地を角鹿(つぬが)という。
「どちらの国から来たのですか」
「意富加羅(おほから)国王の子、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名を于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と申します。この上なく素晴らしい帝(崇神天皇)が日本においでだと聞き、帰化しようと思いました。はじめ下関に行くと、そこに伊都都比古(いつつひこ)という方がいました。『私がこの国の王だ。私以外に王はいない。だから他の所へ行くでない』と言います。そこで私はその人となりをよく見たのですが、決して王には思えませんでした。そして、その地を離れたものの針路が分からず、海岸づたいに北の海を進み、出雲を経てこの地にたどりつきました」
だが、残念なことに崇神天皇は崩御されてしまった。そこで垂仁天皇に仕えて、すでに三年が経った。
天皇「貴殿は自分の国に帰りたいと思わないのか」
ツヌガアラシト「もちろん、そう思っております」
天皇「貴殿が道に迷わずに早く来ていたなら、崇神天皇に仕えることができたであろうに。この機会に貴国の名を崇神天皇=御間城(みまき)天皇にちなんで改めるがよかろう」
そこで赤絹をツヌガアラシトを与え本国に送り届けた。それゆえ、かの国を任那(みまな)という。任那とはこうしたゆかりがある。ツヌガアラシトは賜った赤絹を国庫へ納めた。このことを新羅が聞いて軍事行動を起こし、赤絹をすべて奪ってしまった。これが両国の争いの始まりである。
この説話がどこまで史実を反映しているのかは分からない。ただ、朝鮮半島南部から渡来した人々が確かにいて、我が国もまた彼の地に高い関心を寄せていたことが分かる。ツヌガアラシトという名前は「角がある人」のように聞こえるが、朝鮮語に由来するらしい。
敦賀市曙町の氣比神宮の境内神社に「角鹿(つぬが)神社」がある。
御祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)である。説明板には祭神と当地との深い関わりが記されている。
崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇は氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当神社である。
祭政が未分化であった古代にあって、ツヌガアラシトは渡来人ながらこの地の統治を任せられた。こうした由緒も、我が国の外国人参政権の問題を考えるうえで有益だろう。ただし、『日本書紀』が伝える「任那」は、実際には天皇の名に由来する地名ではないようだ。ツヌガアラシトの出身国「意富加羅」の「加羅」は、「任那」に代わって今もよく使われている。
日本海の海岸では朝鮮半島由来の漂着物がよく見つかる。昨年は北朝鮮船の漂着も相次いだ。こうした出来事からはいい印象が持てないが、朝鮮と日本とが一衣帯水の関係にあることを物語っている。何かと対立ばかりに関心が高まっている現在、ツヌガアラシトと敦賀の関係は思い起こすべき故事ではないだろうか。