大河ドラマ『西郷どん』が始まった。鹿児島弁が何言ってるか分からないだとか、初回の視聴率がワースト2位だとか、そんな評判は気にしなくてよい。西郷、大久保、大山、村田、海江田など、維新の英傑の子ども時代を活写し、今後の展開に期待できる秀作であった。
ドラマでもやがて描かれるであろうが、西郷隆盛は幕末、二度も島流しの憂き目にあっている。ゆかりの島は奄美大島、徳之島、沖永良部島。北からの位置も西郷どんが滞在したのもこの順だ。このうち本日は、沖永良部島の記念碑を紹介することとしよう。
沖永良部島、鹿児島県大島郡和泊町伊延に「西郷隆盛上陸之地」と刻まれた碑がある。揮毫は鹿児島県知事の寺園勝志である。
初回は終盤で、子ども西郷どん小吉役の渡邉蒼くんが大スター渡辺謙の島津斉彬に「おいは斉彬様に、またお会いしとうございもす」と訴えていた。 実際、西郷どんは斉彬公のお側近くに仕え、国事(幕政改革)に奔走した。ところが、突然の訃報が西郷どんの行く手を阻む。安政五年(1858)7月16日、斉彬公が急逝したのだ。
この時、ちょうど大老・井伊直弼による安政の大獄が始まり、西郷どんにも追及の手が伸びてきた。藩は身の安全に配慮して、西郷どんを奄美大島に潜居させることとした。大島に滞在したのは、安政六年(1859)1月12日から文久二年(1862)1月14日のことである。この島流しは刑罰ではない。
鹿児島に戻った西郷どんは、再び国事に携わるのだが、藩の実権を握る島津久光が尊攘激派を弾圧した寺田屋騒動のあおりを受け、刑罰として徳之島への島流しとなる。文久二年(1862)7月初旬に徳之島に着いたものの、さらに沖永良部島への遠島の命が下され、閏8月14日に徳之島を離れた。
その日のうちに沖永良部島の伊延港に着いたが、牢が完成するまで船上に留まった。島に上陸したのは16日である。この時、次のような会話があったと、和泊西郷南洲顕彰会『えらぶの西郷さん』は伝えている。
代官「私は沖永良部島の代官黒葛原源助です。牢屋が出来上がりましたので、これからいっしょに和泊に行きましょう。」
西郷「私が沖永良部島に島流しになった大島吉之助でございます。いろいろとごめんどうをおかけしますが、どうかよろしくおねがいします。」
代官「馬を用意して来ましたので、馬に乗って下さい。」
西郷「ありがたいことではございますが、私はこれから和泊に行って、牢屋に入る身でございます。牢屋に入ってしまいますと、もう、いつ土をふめるかわかりません。ひょっとすると、これが土のふみおさめになるかもしれませんので、どうか私を和泊まで歩かせて下さい。お願いします。」
西郷どんが沖永良部島に滞在したのは、元治元年(1864)2月21日までの1年半ほどのこと。この間、土持政照(つちもちまさてる)ら島の人々に多大な影響を与えた。西郷どんの精神性の高さに感化されたのである。その思想について、和泊西郷南洲顕彰会『えらぶの西郷さん』は、次のように記している。
あの「敬天愛人」という考え方は、この牢の中で生まれたと言われています。それは「私をなくし、真心をもって事にあたり、己をつつしみ、欲を去り、天神をうやまい、人を愛する。」という意味だそうです。
『西郷どん』が放映される今年、「敬天愛人」はキーワードの一つとなるだろう。畏怖すべき「天」に比べ、人はなんと小さい存在か。その小さな存在こそ、愛すべき「人」なのである。明治維新150年、西郷どんの思想を見直す機会としたい。