この冬、日本海から襲来したのは最強寒波であった。福井の国道8号では大雪で車が60時間以上も立ち往生した。北海道稚内ではマイワシが大量に、南紀白浜ではフグやハリセンボンが浜辺に打ち上げられた。いずれも凍死である。
寒波の襲来も困りものだが、日本海の向こう側の武装勢力が襲来するのはもっと困る。本日は、襲撃した武装勢力の上陸を防いだ話をしよう。その戦略とは…。
敦賀市松島町に「気比の松原」が広がっている。国の名勝に指定されている。三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)と並び、日本三大松原とも言われる。
このように風光明媚な景勝に何があったというのか。気比社の社家平松周家が著し、宝暦11年(1761)に成立した『気比宮社記』に、次のような記述がある。巻七社伝旧記部上「天平二十年地震久志川浜辺数千緑松出現」より
聖武天皇天平二十年将異賊来襲西海于時十一月十一日夜敦賀地震動而久志川浜辺数千緑松忽然出現翠色高聳白鷺群集于樹上為白旗之翻相此夜西海之賊船悉覆歿賊徒溺海水
聖武天皇の天平二十年(748)、外国人武装勢力が西の海から来襲した。11月11日の夜に敦賀の地は震動し、櫛川の浜辺に数千本の松が忽然と出現した。高くそびえる緑の松の上には白鷺が群集し、白旗がひるがえっているように見えた。この夜、西海の賊船はことごとく転覆し、賊は海でおぼれた。
これはすごい。イージス・アショアも真っ青の高度防衛システムである。人では為しえない神ワザだから、神官はさっそく朝廷に報告し、社殿造営の宣旨を得たという。ちゃっかりしているようにも思える。
敦賀市松島町の「気比の松原」の中に「駐輦(ちゅうれん)の碑」がある。市指定の史跡である。建立は明治24年9月15日である。
「駐輦」とは、天子が行幸の途中で車を停めることで、明治天皇が行幸した場所や建物などは聖蹟として保存された。この地も「明治天皇気比松原御野立所」として昭和15年に「史蹟」に指定されたが、同23年に他の聖蹟とともに指定解除された。
それでもこの碑が、昭和29年に「史跡」に指定されたのは、単に明治天皇が訪れただけでなく、もう一人の偉人が関係しているからだろう。説明板を読んでみよう。
明治天皇は明治十一年の北陸巡幸の際、十月十日気比の松原に立ち寄り、しばし白砂青松の佳景を賞でた。
その後、明治二十四年九月、勝海舟がこの松原を訪れ、かって明治天皇がここでこの松原の景色をご覧になったのかと、当時を回想して次の漢詩を詠んだ。
曽経駐輦處 黎首憶甘棠
松籟如奏曲 海濤和洋々
辛卯仲秋 海舟勝安房謹題
碑文の意味は、「ここは、かって明治天皇が、お乗物をとどめて景色をご覧になられたところである。国民は明治の善政をよろこんでいる。松風の音はあたかも音楽を奏でているようであり、波の音もこれに調子を合わせて、まさに洋々たる日本の前途を祝福しているようである。」と解される。
北陸巡幸は明治天皇六大巡幸の三番目、明治11年8月30日に東京を出発し、北陸、東海を巡って11月9日に戻るという大旅行である。10月10日は敦賀市街の行在所を出発し、気比の松原を見学し、疋田、刀根を経て、久々坂(くぐさか)峠を越え、滋賀県の柳ヶ瀬に入った。
私が気比の松原を訪れたのは夏で、浜辺からは海水浴客の賑わいが聞こえてきたが、松林の中は風もなく静かだった。この地に異賊が襲来したのは本当だろうか。明治天皇は松原をどのようにお感じになったのか。勝海舟は我が国の行く末をどう見ていたのか。様々な思いが去来したのも、今や懐かしい思い出である。