明日、JR三江線が運行を終える。春は別れの季節とはいえ、鉄道が無くなる喪失感は大きい。乗ったこともないのに。ジョン・ダンの『瞑想録』第17に倣えば、次のように表現できようか。
三江線は我が国をめぐる鉄道網の一部、全国を結ぶは実に鉄路なり。遠き場所といへども、その一部が欠けるは、汝(なれ)みずからの鉄路を失うに等し。ゆえに問ふなかれ、誰(た)がために鐘は鳴るやと。そは汝(な)がために鳴るなれば。
島根県邑智郡邑南町下口羽に「三江線全通記念碑」がある。
揮毫は佐藤内閣で運輸大臣を務めた地元出身の政治家、大橋武夫である。政治と鉄道は浅からぬ縁があり、鉄道の敷設には、地元の熱心な運動など政治力が不可欠である。この記念碑にも、地元の熱い思いが刻まれている。読んでみよう。
明治三十六年代議士恒松隆慶氏が三江線建設の第一声を挙げられ爾来幾多諸先輩の並々ならぬ御盡力に依り父祖三代に亘る念願が叶い今日の完成を見るに至ったのであります。
殊に村長片岡金六氏は全生命を打込み努力せられ其の業績は衆目の認むる所であり次期村長高橋昇三氏も其の意志を継承し三江線期成同盟会副会長として献身的に東奔西走せられ御蔭を以て今日全通の喜びを迎えたのであります。こゝに我々は諸先輩の御功績に対し深甚なる敬意と感謝の誠を捧げ永遠に御恩徳を偲ぶため全村民に依りこの記念碑を建立した次第であります。
発起者 羽須美村社会福祉協議会 羽須美村老人クラブ連合会
羽須美村では、村長の強いリーダーシップにより熱心な運動が展開された。三次側から式敷駅まで開業したのは昭和30年。片岡金六氏が亡くなったのが同32年。遺志を引き継いで運動は続けられ、同38年、式敷駅と口羽駅との区間が開業した。
江津側からは戦前すでに延伸工事が進んでいたが口羽駅とは結ばれておらず、南北それぞれ三江南線、三江北線と呼ばれていた。その後も工事が続けられ、ついに「全通の喜びを迎えた」のは昭和50年8月31日のこと。記念碑は「諸先輩の御功績に対し深甚なる敬意と感謝の誠を捧げ永遠に御恩徳を偲ぶ」と、当時の喜びの大きさを語り伝えている。
三江線の歴史は自然災害との闘いだった。昭和58年、平成18年、同25年と豪雨により不通になり、特に25年の不通は11か月に及んだ。さらに廃止を控えた今冬は、大雪によっても不通となった。
これは式敷駅を14:44に出る口羽行の汽車である。
15:09に口羽駅に着いた。
汽車はこの駅で折り返し、三次行となる。
口羽駅発は15:17である。
動いていたものが動かなくなる。それが人であれ汽車であれ、諸行無常を感じて切ない。錆びゆくレールを、やがて夏草が覆うようになるだろう。せめて、地元の熱意と運行の様子を記録に留めて愛惜の辞に代え、三江線の建設と維持に携わった方々の労をねぎらいたい。