ローマ帝国の人々は、地中海を「我らが海 Mare Nostrum マーレ ノストラム」と呼んだ。我が国では、瀬戸内海を「おやじの海」と呼んでいる。あの大ヒット演歌は、香川県の直島が発祥の地だそうだ。
作者にとって「おやじの海」とは、うちの親父が漁に出かけ俺を育ててくれた、でっかい海のこと。まさに、ふるさとそのものであった。「マーレ…」のほうがカッコいいと思うだろうが、意味するところは変わらない。
西条市河原津に「永納山城(えいのうさんじょう)跡」がある。国指定の史跡である。
上の写真は世田薬師前の永納山城跡入口である。ここから歩いて気持ちのよいハイキングを楽しむことができる。下の写真は古代山城に特徴的な列石である。地図はその位置を示している。
この城跡が「おやじの海」と何の関係があるのか。おやじの海は、我が国にとってのホームタウン、いやホームシー(?)であり、絶対国防圏であった。これを死守するのが、瀬戸内から九州に築かれた古代山城である。
このブログでも「瀬戸内防衛システム(SDS)」で屋嶋城を紹介した。屋嶋城は『日本書紀』に記されているが、永納山城の記述はない。記載の有無にかかわらず、古代山城のネットワークが外敵の侵入を防ぐ役割を担っていた。
歩くと実感できるが、永納山城はけっこう大きい。籠城にも対応できるように思える。その位置と大きさについて、西条市教育委員会は説明板で次のように説明している。
永納山城は、道前平野と今治平野との中間に位置しています。また、すぐ東には燧灘(ひうちなだ)が広がっており、極めて海に接近している点が立地上の特徴です。標高一三二・四mの永納山と、北西に位置する医王山(いおうさん)の二つの独立山塊を取り囲むように城壁が築かれていて、城壁の全長は約二・五㎞になります。
高い位置から陸海の動向を監視することができる。
海と山に挟まれた隘路を押さえていることが分かる。今治小松自動車道の道筋が確認できる。この道を進んで、いよ小松JCTを左折すれば、上り線である。
本土決戦を想定して整備された永納山城。実際には何事も起きなかった。天武持統両天皇は、唐と距離を置きつつも新羅とは外交関係を回復。専守防衛に徹しながら高度国防国家を建設した。
その後、元寇においても瀬戸内海に外敵の侵入を許すことはなかった。先の大戦でも、ヨーロッパ戦線では「我らの海」が戦場となったが、「おやじの海」に敵艦が入ることはなかった。もっとも、敵機が空からやってきたのだが。