福岡市博物館で大人気なのはもちろん「金印」だが、「日本号」という大きな槍もおすすめしたい。酒は呑め呑め~の黒田節で知られる母里太兵衛が、福島正則から勝ち取ったものである。その勝負とは…。
福島「母里、お前も呑めや」
母里「ありがたき御言葉ではございますが、こたびは遠慮させていただきとう存じます」
福島「あん?呑めんちゅうんかい。まさか下戸ではあるまいな。まあ、黒田家の者ならそんなもんだろ」
母里「呑めないわけではないのですが、どうか御勘弁を」
福島「なら、呑めや。この大皿で呑み干したなら、ほうびに日本号をくれてやろうぞ。ま、無理強いするつもりはないがな」
母里「ならば、ありがたく頂戴つかまつる」
と、母里は大皿の酒を軽く呑み、おかわりまでした。「すっかり御馳走になりました。では、遠慮なくいただいて帰ります」と日本号を持ち帰ってしまった。福島はあっけにとられ、ぽかんとした顔で見送るばかりだった。
少々脚色しているが、福島正則にとっては不名誉なエピソードだ。本日は福島正則の人物評価を広島で考えようと思う。
広島市東区牛田新町三丁目の不動院に「広島城主 福島正則公の墓」がある。
福島正則は、元和五年(1619)に広島城の無断修築をとがめられ改易、信濃川中島に転封となり、その地で没した。武家諸法度の違反例として有名だ。もとは七本槍の筆頭として知られる勇猛果敢な武将だが、広島では浅野氏の長い治世の影で存在がかすみがちである。
幕府は福島をどう評価していたのか。『徳川実紀』(台徳院殿御実紀巻五十)元和五年六月二日条を読んでみよう。
二日、福島左衛門大夫正則は、関原の一戦に御味方して軍功をはげみけるにより、安芸備後の両国を給はり、その身参議にまであげられしに、この人、資性強暴にて、軍功にほこり、朝憲をなみし、悪行日々月々に超過して、芸備の人民常に其虐政にくるしむ。
乱暴者でいくさの手柄を鼻にかけ、天下の決まりをないがしろにし、悪行はどんどんひどくなって、安芸備後の人々はひどい政治に苦しんだ。本当にそうなのか。
広島市中区白島九軒町に「八剣神社」がある。小さな祠ではあるが、ここは福島正則ゆかりの地である。
地元の八剣会による説明板には、次のように記されている。
八剣神社は二代目、広島城主福島正則公の、この地に残る唯一の治世の史跡である。
当時、広島は洪水に悩まされここの堤防が切れて、水勢強く容易に防ぎ止めることが出来なかった。
遂に人柱を入れて堰き止めようという時、福島正則公が「それは不憫な、自分に名案がある」と言って秘蔵の名剣八本を箱に納め、地中深く埋めて堰き止めたのである。
その八本の剣の霊を祀って小祠が建てられたのが元和三年(西暦一六一七)今から四〇〇年昔のことである。
以来、水の守護神として、北風に逆い川に向って、敢えてここに建つ。
水を治めるものは天下を治める。特に三角州上に発達した広島では、治水こそ治世の要諦である。強固な堤防を築いて防災に努めた福島は、人命を第一と考える心優しい殿様だったのだ。
『徳川実紀』は幕府の公式記録とはいえ、自らに都合よく書いている可能性が高い。改易処分にした福島正則はこんなにひどい輩だとアピールしたいのだろう。政府のする事なす事には「一点の曇りもない」のだから。
晩年は不遇だった福島が本当に誇るべきは、いくさのごときの手柄ではなく、もとの領地広島で、ゆかりの神社が大切にされ「公」の敬称で呼ばれていることなのである。生き方が不器用であっても、まっすぐな思いは人に通じるのだ。領民に慕われることこそ、領主の勲章である。