助動詞「~だ」は、関西では「~や」であり、山陽では「~じゃ」となる。「味の宝石箱や~!」「味の宝石箱じゃ~!」と、ニュアンスの違いは歴然としている。その境目はどこなんやろ?本日はその場所をレポートしようと思うんじゃ。
岡山県備前市三石と兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原の境に「播備国境の標石」がある。備前市指定史跡である。ここは船坂峠といい、山陽道でも有数の難所であった。
「これより西、備前国」と刻まれている。備前方面にカメラは向いている。標石が建てられたのは元禄十六年(1703)というが、それほど古く見えない。質のいい石材が使用されているのだろう。
だが不思議なことに、この標石の前に道はなくて崖がある。よく見ると崖の下に道があった。
かつての国道2号は、ここを通過していた。写真の標柱には、正面に「縣界 東宮殿下行啓記念 岡山縣」、西側に「岡山縣和氣郡三石町」、東側に「兵庫縣赤穂郡船坂村」と刻まれている。大正十五年に建てられた。この年の5月21日から24日まで、後の昭和天皇となる皇太子殿下が岡山に滞在した。これを記念した県境碑である。
現在の国道2号は、さらにこの下の船坂山トンネルを通過している。近世、近代、そして現代と、道の位置は低くなり利用しやすくなった。近世以前はどうだったのだろうか。鎌倉時代初期に活躍した重源上人の事績を記録した『南無阿弥陀仏作善集』に、次のような記述がある。
備前国船坂山者、自昔相交緑陰、往還人或愁悩、或失身命、仍勧進国中貴賤、切掃彼山、成顕路、永留賊難
備前国の船坂山は昔から樹木がうっそうと茂り、道行く人が難儀をして命を落とす場合もあった。そこで国中の人々から寄付を集め、山の木を伐採して通り道が分かるようにし、盗賊に襲われることのないようにした。
上の写真からも分かるように、道路はメンテナンスが欠かせない。人が通らなくなれば自然に還っていく。社会救済の実践家、重源は道路の補修や橋の修築を行い、福祉の増進を図ったのである。
こうして峠の歴史を振り返ると、次第に利便性が高まってきたことが理解できる。近年は国境がなくなってボーダーレスの時代がやって来たといわれる。ここ船坂峠の国境は県境となり、トンネルの通過もあっという間だが、「~や」と「~じゃ」のボーダーはなくなっていない。