先日お墓参りに行った時、ある墓碑に、ビルマ方面で壮烈なる戦死を遂げた、と刻まれているのを見た。
「壮烈なる戦死」
それは、戦場での死を表現する決まり文句であり、山本五十六大将から一兵卒に至るまで、「壮烈」に亡くなったとされている人は多い。そうなのかもしれないが、本当にそうなのだろうか。そもそも、どのような死にざまが「壮烈」なのだろうか。
高梁市成羽町成羽(天神ヶ丘)の小平園に「壮烈 喇叭手(らっぱしゅ)木口小平之碑」がある。彼は日清戦争で壮烈なる戦死を遂げたラッパ手で、出身地は今の同市成羽町成羽(新山)である。
大正三年(1914)五月に建てられた。第一次世界大戦はこの年の夏に勃発するから、必ずしも好戦的な雰囲気の中で建碑されたものではない。ちょうど郷土の英雄を顕彰しようという機運が高まっていたのだろう。
書は第十七師団長の仙波太郎(せんばたろう)である。第十七師団には建碑当時、歩兵第二十一連隊が所属していた。本日の主人公、木口小平はかつてこの連隊の一員であった。日清戦争における成歓の戦い(今の韓国・忠清南道)で明治二十七年(1894)七月二十九日に戦死した。
小平の戦死が壮烈だったことは全国的に知られていた。というのも「修身」教科書に紹介されたからである。初登場は明治三十七年(1904)で、その後幾度か改訂されながら、昭和十六年(1941)まで使用されていた。とくに有名なのは大正七年(1918)からの第三期国定教科書の記述である。『尋常小学修身書 巻一』十七「チュウギ」には、次のように記述されている。
キグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ。
死してなおラッパを吹き続けようとするかに見える。なんと壮烈な死にざまであろうか。自分の職務にはこれほどまでに忠実であれ。その心持ちでお国のために尽くすべし。そう教えていたのだろう。
ところが、壮烈な死を遂げたとされるラッパ手は当初、別の兵士だった、というミステリーがあるのだ。
倉敷市船穂町水江に「陸軍歩兵一等喇叭手白神源次郎紀念碑」がある。源次郎も小平と同じく歩兵第二十一連隊に所属するラッパ手であった。こちらの碑は日清戦争直後の明治二十九年(1896)に建てられている。
源次郎の死について、裏面の碑文は次のように伝えている。
劇戦中忽焉敵丸洞其胸部濺血淋漓不屈不撓吹奏于進軍喇叭譜瀏々亮々余音如縷逝矣
激戦のなか、敵の弾が胸部を貫き、血がしたたり落ちたものの、不撓不屈の精神で高らかに進軍ラッパを吹き続けていたが、やがてかすかな音を残して死んでいった。
壮烈なる戦死を遂げたラッパ手は、白神源次郎なのか木口小平なのか。西川宏『ラッパ手の最後-戦争の中の民衆-』(青木書店)によると、この美談の初見は、成歓の戦い直後の明治二十七年八月九日付の東京日日新聞であるという。
喇叭卒の一名は進軍喇叭を吹奏しつつ敵弾に斃れ斃れ、猶ほ管を口にし
ここではラッパ手の名前は報道されていない。八月十二日付の大阪毎日新聞の報道では、最期のようすがさらに具体的になっている。
我喇叭卒某進軍行を鼓吹すること嚠喨たり偶ま飛丸あり彼が胸部を撃つ彼倒れて尚鼓吹を止めず瞑目絶息に至り初めて吹奏を絶つ
ここでもラッパ手の名は出てこない。だが九月十七日付の地元紙中国民報が、「身弾丸に中たり絶命に至るまで進軍の譜を奏し遂に斃る」兵士は、岡山県初の戦死者「白神源次郎」であると報じた。ここから源次郎顕彰の機運が高まっていく。
ところが、戦争終結後の明治二十八年八月三十日、読売新聞が驚くべき記事を掲載した。かの有名なラッパ手は白神源次郎ではなく木口小平だったと、軍当局の調査で判明したのだという。
それでも源次郎顕彰の機運は衰えることなく、顕彰碑の建立とつながっていく。その後も壮烈なる戦死を遂げたラッパ手として白神源次郎のイメージは強く残り、明治三十六年(1903)発行の検定教科書にも掲載されるくらいだった。
しかし、国定教科書に「キグチコヘイ」の名が掲載されると、木口小平は兵士の亀鑑と喧伝され、誰もが知る存在となった。そして戦後七十数年を経た今、源次郎も小平も話題になることはほとんどない。
死んでもラッパを口から離さなかったラッパ手は、源次郎か小平か。『ラッパ手の最後』によれば、どちらでもないそうだ。そもそも、一兵士の死に際を映像のように証言できるほど冷静に観察できた兵士仲間はいなかった。壮烈な戦死という物語ができて、後から主人公が探し出された、ということらしい。
死してなお見せる生けるかのような姿は、弁慶の立往生がそうであったように、ドラマを好む人々による空想だったのかもしれない。実際に敵弾を受け、キャパの有名な写真「崩れ落ちる兵士」のように一瞬で倒れたとしても、人々は死に際にスローモーションのような物語を求めたのだ。「壮烈な」物語を。