平成史を代表する大きな変化の一つに、「戦国武将のイケメン化」が挙げられよう。画期となるのは2005年の「戦国BASARA」の発売ではないか。それまで武将は伝えられた肖像画に似せて描かれていたが、今では実像の呪縛から解き放たれたようにイケメン化している。
それで歴史ファンが増えるならよしとすればよいが、イメージが独り歩きするのはいかがなものか。もっとも歴史人物の偶像化は今に始まったことでなく、能や歌舞伎において義経や弁慶の人物像を豊かな想像力で膨らませ、その物語を楽しんできた。歴史に親しむとは、そういうことかもしれない。
長宗我部元親のイメージは、これまで国の重要文化財である「絹本著色長宗我部元親像」に基づいてきた。葬儀に際して子の盛親が制作したというから、元親の面影を正確に伝えているはずだ。
高知県立歴史民俗資料館のエントランス前に「長宗我部元親飛翔之像」がある。有名な肖像画とはまったく異なる。かろうじて十二間突盔形兜(じゅうにけんとっぱいなりかぶと)で元親だと分かる。初陣で着用していたという兜だ。手にしているのは約3.7mの長槍で、同じく初陣では槍で奮戦したと伝えられている。
アイテムでやっと判別できるイケメン元親は、なぜこの場所でポーズをとっているのだろうか。
南国市岡豊町八幡(おこうちょうやはた)に「長宗我部氏岡豊城址」の石碑がある。揮毫は土佐藩出身の正二位田中光顕である。維新で活躍し、明治期に内閣書記官長や宮内大臣などの要職を歴任した。昭和九年に建てられた。
天文八年(1539)、元親は長宗我部氏歴代の居城、岡豊城に生まれた。初陣は永禄三年(1560)だから、年齢としては遅いデビューである。二十歳過ぎの元親はおそらく像のようなイケメンであり、初陣で勝利した喜びを像のような決めポーズで表現したに違いない。
天正十九年(1591)に浦戸城に移るまで、岡豊城は長宗我部氏の本拠地であった。その支配領域を考えれば、統一四国の中心と言っても過言ではない。
岡豊山の北麓に「伝・長宗我部氏一族之墓」がある。
いかにも古そうな五輪塔や宝篋印塔が無秩序に並んでいる。南国市教育委員会の説明板を読んでみよう。
岡豊山から西や北におりる谷間帯には、玄陽院・瑞応寺・東谷庵などの寺院跡があり、長宗我部氏代々の墓所が残っている。
二十数基の墓はごく粗末なもので、連綿二十余代に及んだ長宗我部氏の歴史を物語るにはあまりにも貧弱なものである。上段には国親又は信親と言われる墓碑があり、下段には累代の墓が立っている。
四国を席巻した長宗我部氏の墓として物足りないと感じるのは確かだが、中世の墓制を勘案すれば「あまりにも貧弱なもの」とまでは言えないだろう。戒名や没日を刻んだ墓標は近世になって普及する。上段に足を運ぼう。
これが「国親又は信親と言われる墓碑」である。国親は元親の父で、国盗りの基礎を固めたが、元親初陣直後の永禄三年(1560)に没している。信親は元親に将来を嘱望された嫡男だったが、天正十四年(1587)に豊後戸次川(へつぎがわ)の戦いで戦死した。
国親の死はある意味、長宗我部氏の始まりであり、信親の死は終わりの始まりであった。
南国市岡豊町吉田に「吉田備後守邸趾」がある。
長宗我部氏の四国統一は、独り元親の手になるものではない。それは股肱の臣あればこその偉業であった。吉田備後守重俊はライバル安芸氏の討伐で活躍した。幕末の土佐藩で藩政改革を断行した吉田東洋は、重俊の子孫とのことだ。
長宗我部氏が関ヶ原の敗戦で国を奪われると、替わりに入国したのは「内助の功」で出世した山内一豊(尾張出身)である。江戸期を通じて山内氏が藩主として君臨し、幕末には四賢侯の一人山内容堂を排出した。それでも一番人気が長宗我部元親なのは、地元生え抜きだからという見方もあるが、やはり彼がイケメンだったからにちがいない。イケメンは人心を掌握するのである。