好発進した大河『麒麟がくる』は、クライマックスの本能寺の変をどのように描くのだろうか。明智光秀の動機は日本史上最大の謎とされ、怨恨説や野望説、陰謀説など様々に語られてきたが、近年注目されているのが「四国説」である。岡山の林原美術館が所蔵する石谷家文書の研究により、光秀が主君信長と盟友長宗我部元親との間で板挟みになっていたことが確かめられた。
この石谷家は「いしがや」と読む室町幕府奉公衆だが、本日訪ねるのは「いしたに」さん、山林地主の大邸宅である。超豪邸にさっそく行ってみよう。
鳥取県八頭郡智頭町大字智頭に「石谷家住宅」がある。住宅であるとともに山林経営の事業所で、会社は現在も石谷林業として続いている。薪や薪ストーブ、石窯などを扱う薪クラブを運営している。
この住宅は、大正八年(1919)から昭和四年(1929)にかけて、石谷伝四郎によって建築された。石谷家は因幡街道智頭宿において問屋として栄えていた。伝四郎は衆議院議員3期を経て、大正七年(1918)に多額納税者として貴族院議員に選出されていた。
今回は豪勢な家の造りではなく、家の建築が始まった頃の伝四郎の活躍を見ることとしよう。大正九年(1920)7月20日、第43回帝国議会の貴族院請願委員第四分科会(陸軍省、海軍省、鉄道省)において、伝四郎は次のように質問した。
○石谷伝四郎君
是は若桜町に至ります軽便鉄道の件でございますが、此若桜町と申上ますのは随分繁華な町でございまして、此奥一帯は御承知でもありませうが、中国第一の森林に富んだ従来林産物を搬出いたしまするのが夥(おびただ)しいことでございます。其他農産物或は鉱物も沢山でます。旁々(かたがた)鳥取駅は山陰線中第一貨物の集散又乗客の最も多い土地になって居ります。畢竟するに若桜町は現に沢山木材を搬出する次第でございます。貨物も目下沢山になって居るのであります。此因美線を若桜町に軽便鉄道を延ばして貰ひたいと云ふことは以前から問題になって居ったのであります。併ながらまだ其当時は御調査が進んで居らなかったか知れませぬが、ずっと前には此鳥取より若桜町を経て但馬の方へ鉄道を敷きたい、斯う云ふ一つの計画がありましたが、其鉄道は無駄になったことがあります。其当時政府の方でも御調査になったことがあると思はれる。今日はさう云ふ但馬の方へ通ずる鉄道ではない。其内の若桜町までと云ふので、是は誠に簡易なる所ばかりでございます。因美線から日本の里数で四里ばかりになります所で、川渕に沿ふて上って行くのでございます。極く工事なども簡易な所でありますが、政府の方で御調査になったことがありますか。一方伺って置きたい。
○政府委員(大村鋿太郎君)
政府ではまだ若桜へ参ります間は調査したことはありませぬ。ありませぬですが技術者で此地方を私用で歩いたものから聞いて居ります所に依ると、工事は余りむづかしくない所で、さうして若桜と云ふ所は非常に材木の出る所であると云ふ話を聞きました。さうして延長十三哩位だらうと言ふ話であります。是は線路図を作った時分に改訂線路図は此位のものを作ったら日本の鉄道は一通り役をしやしないかと云ふ見込でやったので、諸方から御註文があったならば、それに応じて調べ又線路の殖やすべきは殖やし変えべきは変へてやらうと云ふ意見を有って居りますが、此若桜に行く線は線路図に私は追加すべきものではないかと思ひますから、其中十分に測量もし工事人等も調べて線路図に追加したいと斯う思って居ります。
○男爵山根武亮君
御尋しますが因美鉄道と云ふのは何所から何所でありますか。
○石谷伝四郎君
鳥取駅から中国鉄道の終点に当る津山へ出ます此間を因美線と云ひます。
○男爵山根武亮君
分かりました。
○男爵名和長憲君
此因美線と云ふのは未だ工事に着手して居らぬのでございますか。
○政府委員(大村鋿太郎君)
因美線は鳥取の方面からもと智頭までが軽便鉄道の計画になって議会の協賛を経まして工事に着手して居りますが、今では・・・・約十哩ばかりあったと思ひますが、用ヶ瀬と云ふ所まで開通して居る。それから先きは測量を終って用地を買収して工事に着手する、斯う云ふ順序に今なって居ります。津山方面から未だ着手して居りませぬ。
○大山綱昌君
因美鉄道の起点は鳥取でございますか。
○政府委員(大村鋿太郎君)
因美鉄道の山陰線の方の起点は鳥取、それから山陽の方は中国鉄道の終点駅の津山と云ふ所でございます。其津山駅を少し動かしまして現在の津山の町にもう少し近く持って行って終点にする積りであります。
大正十一年(1922)の改正鉄道敷設法別表第88号には「鳥取県郡家附近ヨリ若桜ヲ経テ兵庫県八鹿附近ニ至ル鉄道」が建設予定線として示されているから、伝四郎の働きかけが功を奏したのかもしれない。この鉄道路線は昭和五年(1930)に鉄道省若桜線として開業するが、兵庫県への延伸は実現することがなかった。国鉄末期に廃止対象となったが、現在は若桜鉄道若桜線として営業している。
ちなみに大村鋿太郎(しょうたろう)は鉄道省建設局長を務めた官僚である。因美線について質問した山根武亮(たけすけ)は長州出身の陸軍中将、当時は貴族院の男爵議員だった。次に発言した男爵名和長憲(ながのり)は忠臣名和長年の後裔で、同じく男爵議員。その次の大山綱昌は薩摩出身の官僚で岡山県知事などを務め、当時は貴族院議員だった。
因美線は当時、大村委員が答弁しているように、鳥取駅から用瀬(もちがせ)駅まで開通しており、さらには津山駅と結ぶこととしていた。その際、津山駅の場所を移動させる予定だとしているが、大正十二年(1923)に新しい津山駅ができ、昭和七年(1932)に因美線が全通した。
貴族院議員というと名誉職であって、どこか浮世離れしたような論議をするイメージがあったが、なかなかどうして、交通インフラの整備についてきちんと政府を質している。お歴々のおかげで山間部が交通至便となり、今も多くの人々に利用されている。ただし、石谷伝四郎は大正十二年(1923)に亡くなり、若桜線も因美線も、自分の大豪邸さえも見ることがなかった。
ここは因幡街道の智頭宿。石谷家住宅の前はメインストリートである。
石谷家住宅の前に「智頭消防団本町分団屯所」がある。国の登録有形文化財で、昭和十六年建築の瀟洒な洋風建築である。中に入ってみよう。
この部屋の窓を開けて正面を写した写真が、いちばん上のものだ。古き良き日本を象徴するかのような風景が、智頭宿にはある。司馬遼太郎は明治時代に我が国の発展モデルを求めたが、本日扱った大正半ばから昭和初期にも文化のピークがあったように思える。鉄道網の発展は我が国の成長を意味していた。