歴史を動かした最大の暗殺事件は、サラエボ事件だろう。19歳の若者が第一次世界大戦の引き金を引いてしまったのだから。暗殺されたのはハプスブルク帝国のフランツ・フェルディナンド皇太子夫妻。犯人の名はガヴリロ・プリンツィプ。凶器はブローニング拳銃だった。
我が国でも戦国史を動かした暗殺事件があった。狙撃による初の暗殺である。倒されたのは備中の戦国大名、三村家親。狙撃手は遠藤兄弟。黒幕は戦国の梟雄、宇喜多直家であった。本日はその暗殺現場からレポートする。
岡山県久米郡久米南町下籾に「興善寺(三村家親)宝篋印塔」がある。町の文化財に指定されている。
三村家親は本ブログ記事「生き残れなかった戦国大名」で紹介した。その突然の死は、我が国の歴史というほどではないが、中国地方東部の戦国史を確実に動かした。備中や美作が毛利氏vs宇喜多氏の草刈場と化すのは、地元生え抜きの三村氏が衰亡したからだ。
備中の雄、三村家親が暗殺された時の状況を『備前軍記』巻第三「三村再作州働き并家親うたるゝ事」で読んでみよう。時は永禄九年(1566)二月五日であった。
としも明け永禄九年の春になりて、重ねて三村家親作州へ働き出、備前へも打入べきよし聞えければ、宇喜多安からず思ひ、何とぞ謀を以て三村を打取べしと工夫ありて、津高郡加茂に居住せし浪人侍に遠藤又次郎・同喜三郎という兄弟の者あり。初めは成羽に久敷ありて家親をもよく見知り家中にも知音もあり。又作州境に今居れば土地の案内もよく知りたれば、よき間者と思ひて兄弟を呼寄て、何とぞ家親が陣所へ忍入て謀を以て殺すべき樣やあると、ひそかに頼まれければ、又次郎承り、仰畏り候。され共一大事の御頼にて候へば、三村は大名にて人数も多く候へば、某が身にて打取らんこと甚かたき事に候。され共某を御見立御頼被成候事生前の面目にて候へば、身命を捨てゝ謀をなし可申候。されども功をとげずして打とられ、命をうしなひ候はゞ、妻子をばよきに頼み奉るといひて請がひければ、直家大に悦び、功をとげば賞は望に任すべしとありて、遠藤兄弟作州へ立越て、彼方此方と忍びける。三村家親此度は穂村の興禅寺を本陣として其辺に皆々軍兵ども陣取ける。常に其寺の便宜案內はよく知りたれば、敵陣の間を忍び入て兄弟申合せ鉄砲にてねらひ搏殺さんとぞ謀りける。二月五日の夜の事なれば月も入り、夜廻りの者に紛れて客殿の庭へ忍び入りうかゞへば、本堂の方に家親が声聞ゆれば、椽へ上り唾にて障子の紙を湿し押破り見れば、家人を集めて家親は仏壇の前に寄添て軍評定をせしと聞ゆ。又次郎かくし持たりし短き鉄砲に二ツ玉込たるにて是をうたんと、かの障子の破よりねらひけるに火縄立消して玉出でず。則鉄砲を引きその筒を椽の下へかくし置き、又夜廻りの番所へ行て篝火によって寒き夜のうさなど物語り、しづかにして羽織の裾を火の中へ入る。番人物焼け臭しといふ。喜三郎麁末にて某が羽織を焼たりとて、もみ消すふりにて其所をさりげなく立さり、小蔭にて其火を火縄にうつし付て又次郎に渡す。又次郎是をとりて又元の椽に上りてのぞき見れば、今度は家親はじめの仏壇にもたれかゝり眠り居たるを幸とて、ねらひ澄し搏たれば脳を打貫きぬと見ゆ。兄弟ども是をよく見極めて堂の後の藪に隠れてゐたるに、寺中大きに騒ぎけるが程なく静りぬ。さらば忍び出んとせしに、最前の鉄砲椽の上に其儘置たり。是を落し置なば以後に臆したりといはれんと思ひ、再び立帰りみればもとの所に鉄砲の其まゝありけるを提げ、藪をくゞりて忍び出て事故なく備前へかへり、沼の城に至り其夜の次第を細々と語ければ、直家大方ならす悦び、猶其実否を極めんため作州へ忍びをやりて聞しに、家親死たるといふ沙汰もなくて今日は備前へ打入るとて、みな兵粮などつかひて軍立ある体を聞て帰りければ、直家も不審しけるが、又聞えしは、三村の軍勢途中より俄に備前へはむかはず備中へむけて帰陣したり。是家臣三村孫兵衛諸軍を鎮めん為に家親の死去をかくして、事静に成羽へ軍を入けるにて有けり。扨帰り着て後家親の死去を披露ありければ、家臣誠に暗夜に燈をうしなひしがごとく、あきれてぞ居たりける。其後興禅寺にて家親打殺されし事世にかくれなければ、其賞として遠藤又次郎に千石の地をあて行はれける。それより多く武功をかさねて浮田の号をゆるされ領知も加へられて、後には浮田河内と名乗り四千五百石の地を領しける。弟の喜三郎も同じく賞を行はれ、是も後に遠藤修理といひける。
一説に、家親を遠藤が鉄砲にて搏しは作州弓削寺といひ、又仏教寺にての事ともいふ。共に誤也。久米郡穂村の興禅寺に、後迄仏壇の腰板に其鉄砲の玉ありしと、見し人語りし。
永禄九年(1566)の春になって、備中の三村家親が美作や備前に進出するという情報が入って来たので、宇喜多直家はなんとしても三村を討ち取ろうと策謀をめぐらした。津高郡加茂(今の吉備中央町)に住む遠藤又次郎と喜三郎の兄弟は、三村の本拠地成羽に長くいたので、家親の顔を知っているうえ家中に知り合いもいた。また、地元なので土地勘があるためスパイには適任と考えた。
「又次郎に喜三郎、そなたらに頼みがある。三村の陣所に密かに入り家親を暗殺してはくれぬか」
「かしこまりました。だた、三村勢は大人数で私どもには手に負えぬことやもしれませぬ。されど殿に見込まれたことを生涯の誇りとして、身命を賭してやり遂げて見せましょう。もし失敗して落命したなら、妻や子をよろしくお願いいたします」
「あいわかった。成功したなら褒美は望みどおりじゃ」
遠藤兄弟はさっそく美作に入った。三村の軍勢は穂村(今の久米南町)の興善寺に陣取っていた。この寺はよく知っていたので忍び入り、鉄砲でどこから狙えばよいか探った。二月五日の夜は暗く、夜警の者にまぎれて客殿の庭に入ると、本堂のほうから家親の声が聞こえてくる。そっと縁に上がり指先の唾であけた障子の穴からのぞいて見れば、家親は家来と仏壇の前で作戦会議をしていた。又次郎は隠し持っていた二つ玉の短銃で狙撃しようと、障子の破れから狙ったが火縄の火が消え撃てなかった。あわてて鉄砲を縁の下に隠すと、喜三郎が夜警の番人たちのもとへ行き、かがり火にあたりながら「寒くてかなわん」などぐだぐだと話をした。その間に気付かれぬよう羽織の裾を火の中に入れておいた。
「なんか焦げ臭いぞ」
と番人が言うと、喜三郎は
「おっと、やっちまった。早く消さねえと…」
と言いつつ、その場を離れて陰に隠れ、火を火縄にうつして又次郎に渡した。鉄砲を持った又次郎が再び縁に上がってのぞいて見ると、家親が仏壇に寄りかかって居眠りをしているではないか。これ幸いと、又次郎は慎重に狙って家親の頭をぶち抜いた。死を見届けた兄弟が寺裏の藪に隠れていると、寺の中では大騒ぎとなったが、やがて静かになった。寺から抜け出そうとした時、又次郎は鉄砲を縁に置き忘れたことに気付いた。そのままにしておくとビビりと思われると考え、戻ってみると鉄砲はそのままだった。これを携え、兄弟は藪を抜け出し、無事に備前の沼城に帰り着いた。
「かくかくしかじか。務めを果たしてまいりました」
「そうか!それはよかった。見事な働きじゃ!」
そう言いつつも、直家は事実確認のため美作にスパイを入らせたが、家親が死んだという情報はなく、備前に討ち入る準備をしているとのことであった。直家が不審に思っていると、備前に向かうかに見えた三村の軍勢が、途中で備中に進路を変え成羽に帰って行ったという情報が入ってきた。これは重臣の三村親成が動揺を防ぐために家親の死を隠し、静かに軍を移動させたことによるものであった。帰着後に主の死を明らかにすると、家中は暗闇で明かりを失ったように途方に暮れるのだった。その後興善寺における家親暗殺が明らかになると、又次郎には褒美として千石の地が与えられた。その後も又次郎は武功を重ねたので、浮田姓を許されるとともに加増され、浮田河内として四千五百石を領した。弟の喜三郎も褒美をもらい、のちに遠藤修理と名乗った。
一説にこの暗殺現場は弓削寺(今の久米南町の蓮久寺)といい、また仏教寺(同じく久米南町)ともいう。ともに誤りである。久米郡穂村(今の久米南町籾村〔もむら〕地区)の興善寺で、仏壇の腰板に鉄砲玉がめり込んでいた。実際に見た人が、そう語ったということである。
浮田河内の名乗りを許された又次郎こと遠藤秀清は、本ブログ記事「美しい石垣で守る山城」で紹介した徳倉城の城主となった。軍記には脚色が多いから、本日紹介のドラマもどこまでが本当か分からない。ただ、主君が指令した暗殺を命を賭して実行した武士がいたことは間違いないだろう。軍記に描かれた緊張感は暗殺現場のリアルである。
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