朝倉義景の嫡子阿君丸を毒殺したのは、朝倉義景の上洛を阻止しようとする三淵藤英の奸計だったと、大河『麒麟がくる』で描かれた。義景の盟友である浅井長政の嫡子万福丸も、浅井氏滅亡後に探し出されて処刑されている。戦国の世に少年保護という考え方はない。将来の禍根を断つために男児を生かしてはおけないのである。
赤磐市周匝(すさい)に「仙千代の墓(乳母塚)」がある。
右側の墓石には「佐々部勘斎」と「佐々部仙千代」の名が刻まれている。左側の小さな墓石には「乳母」「従者」の文字が読み取れる。いったい何があったのだろうか。谷の入口に説明板があるので読んでみよう。
仙千代は茶臼山城主佐佐部勘斎の子で天正七年落城の際、乳母とともに逃れたが、敵方に告げられて討ち取られ、ここに葬られたと伝えられている。
昭和五十八年十一月
吉井町教育委員会(赤磐市教育委員会)
茶臼山城はこの山上にある城で、現在は模擬天守が建てられている。ここから吉井川を下ると浦上宗景の天神山城があり、茶臼山城はこの城の属城だった。天神山城落城の後の天正七年(1579)に、宇喜多直家による浦上残党の掃討戦で茶臼山城が落城。仙千代の悲劇もこの時のことである。
寛政年間に岡山藩士が記録した『吉備温故秘録』巻之三十七城趾上には、茶臼山城について次のように記述されている。
古城山 周匝村乾にあり
笹部亦次郎居城といふ。又勘斎ともいふ。宗景の臣なり。天神山落城後天正七年正月、宇喜多家より花房助六兵衛延原弾正両人をつかはしてこれを討しむ。城陥り勘斎も、一ノ谷といふところにて討死、墓も今に在りといふ。
(按ずるにこの説非なり。笹部与次郎当城の川向、作州飯岡城の主なり。当城は星賀藤内といふ。此説を得たりとせんか。)
星賀藤内居城なりしが、天文二十一二年の頃、雲州尼子晴久より人数をいだし、当城を攻む。城兵少なく城もたもちがたく、藤内は落失にけり。寄手は夫より川を越て、作州飯岡村の王子といふ所まで引取けり。殿の者共、同村の女童共の、川端へ水汲に出たるに、若落人など見ざるやと問うに、女童答ていふ。向の谷に城より女をつれてかくれしといふ。さあらばとて、其よしを大将へつげゝれば、又取て返し一の谷へ攻入しに、侍十二三人、女房三四人、城主の息仙千代(時に十二三歳)毛氈を敷て、やう/\昼飯を喰ひ居たる処へ、打てかゝり、仙千代をはじめ不残打取、尼子勢は勝時を揚て、作州へ引取けり。扨処の者共は其死骸を埋め、仙千代の墓を築き、今に此一の谷にありといふ。此本丸より少し東、草生村の内の山に、二の丸の趾あり。此処別て要害の地なり。近き比は、此山にて一箇年に両三度づゝ、読経修法あり。又仙千代の墓へは痘疾のものあれば、此墓前へ行、立願に、何にても歌を半分うたひ、此願成就せば、残り半分をうたひ可申といふて、拝すれば、即時に平癒すといふ。これに依て里民其恩を蒙り、近きころは少しき祠堂を建し由なり。又作州飯岡村の里民、立願かなはず、これはその在所を、尼子家へ告し怨みといふ。
仙千代の哀話が詳しく紹介されている。ただ仙千代の父は星賀藤内で、年代は天文二十一二年(1552,3年)、敵は尼子晴久だという。笹部氏は吉井川の向こう側(美咲町飯岡)にある鷲山城の城主だったとする。本年刊行された『岡山県中世城館跡総合調査報告書』では、鷲山城に「星香藤内」、茶臼山城に「佐々部(笹部)次郎(勘斎)(浦上宗景家臣)」、そして茶臼山城と峰続きの大仙山城に「星賀(保鹿)藤内」の名が記されている。
いずれにせよ、長く仙千代の霊を弔ううちに、天然痘に効く疱瘡神としての信仰が生まれたようだ。現在は新型コロナウイルス第3波の真っただ中で、三密回避や飛沫拡散防止など科学的な対策が行動規範となっており、マスク会食が推奨されているほどだ。「頼むから来ないで」と祈るしかないような気持ちが痛いほど分かる。