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象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花
『おくのほそ道』の旅の句である。「東の松島、西の象潟」と称された景勝の地を訪れた芭蕉は、雨に濡れる淡紅色のねむの花を、憂いに眼を閉じた西施の美しさに見立てた。安易に人まねをすることを「西施の顰(ひそ)みに倣(なら)う」というが、美しい人は眉をしかめても美しいのである。
この西施は越王勾践から呉王夫差に献上された絶世の美女である。夫差は見事にハニートラップにかかって政務を怠り、呉は亡国への道を歩み始めたという。このトラップを仕掛けたのが越の忠臣范蠡(はんれい)である。越を守り勾践を支えるためなら謀略をためらわない名軍師であった。
その范蠡が数百年の時を経て我が国に登場した。本日は『太平記』屈指の名場面「白桜十字詩」の舞台をご案内することとしよう。
津山市神戸(じんご)の作楽神社境内に「院庄碑」がある。「東大門桜樹址」「十字の詩跡」という表示もある。
ここは美作の守護所で、隠岐へと流される後醍醐天皇が宿泊していた。その天皇を救おうと挙兵したのが児島高徳、我が国を代表する忠臣である。船坂山で挙兵したものの予測が外れて空振りに終わり、今度は確実と思われた杉坂ではとうに通過したことを知る。天皇一行はすでに、ずいぶん先の院庄に入っていたのである。児島高徳は単身、院庄の守護所に忍び寄った。説明の碑文を読んでみよう。
美作院庄十字之詩之跡
元弘二年(一三三二年)の春なかば、隠岐の国へ向かわせられる後醍醐天皇は、鎌倉武士にかこまれて、ここ美作院庄の館へお着きになりました。
その途中をお待ちして、舟坂山から杉坂へ、事におくれた児島高徳が、後を慕って館へしのび庭の桜に「十字の詩」を書きしるしたその昔の東大門の跡とされています。
かたわらに建つ「院庄碑」は貞享五年(一六八八年)津山藩の重臣長尾勝明が現地を考証して、名跡保存の「いしぶみ」を遺したものであります。
津山藩の長尾勝明は文化財保護の先駆者で、万葉の歌枕「宇那提森」の顕彰碑も建立している。院庄碑そのものも高く評価すべきだろう。その内容は別の解説碑から知ることができる。
この場所は、鎌倉時代に守護職(大名)の館の東大門があった場所です。元弘二年(一三三二)に後醍醐天皇が逆臣北条高時のために隠岐に流される途中、この館にお泊りになり児島高徳が大門の傍らの桜の幹を削って詩をしるし、天皇をお慰めした故事は、後世の人びとを感動させました。東山天皇の貞享五年(一六八八)津山藩森家の執政(家老)長尾勝明が建碑して高徳の忠誠を顕彰し、明治になって作楽神社が創建される基を作りました。碑の漢文は白文ですが、訓読すると次の通りです。
元弘の乱に 後醍醐帝隠州に狩し 翠華(すいか)此の地に次(やど)りたまふの日 児島備後三郎高徳密かに宿営に来り 桜を削りて書して云ふ 天勾践を空しうすること莫かれ 時に范蠡無きにしも非ずと 事口碑に詳し 此を贅(ぜい)せず 今邑民伝へ称すらく 往昔の桜泯滅(びんめつ)して既に旧し 厥(そ)の地曽て東大門と号す 近ごろ其の遺蹤(いしょう)に因りて 新桜一株を栽ゑ 又石に刊(きざ)みて渠(かれ)の忠誠を旌(あらわ)し 且つ人をして行在の蹟を識(し)らしめんと欲す 銘に曰く
皇帝赫怒(かくど)して 鳳駕西に翔けたまふ 天神聖を翼(たす)け 爰に賢良を降す 片言を桜に誌して 百世に芳を流す 分を明かにして賊を討ち 忠を罄(つく)して王に勤む 義気を石に刻めば 列日厳霜のごとし
やっとのことで天皇一行に追いついた児島高徳だったが、警備が厳重でとても奪還できそうにない。そこで闇夜にまぎれて館に近付き、東の大門近くに咲く桜の幹を白く削って十字の詩を書きつけた。天が越王勾践を見放さず范蠡が忠義を尽したのと同じように、天皇をお救いしようとする忠臣はここにおりますぞ。翌朝雑兵がこれを発見したが、何のことか分からずざわついていた。騒ぎの内容を聞いた天皇だけは、静かに笑みを浮かべたという。『太平記』巻四「備後三郎高徳事付呉越軍事」でも確認しておこう。
主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける間、無力(ちからなく)此より散々(ちり/゛\)に成けるが、せめても此所存を上聞に達せばやと思ける間、微服潜行して、時分を伺ひけれ共、可然(しかるべき)隙も無りければ、君の御座ある御宿の庭に、大(おほき)なる桜木有けるを押削(おしけづり)て、大文字(だいもじ)に一句の詩をぞ書附たりける。
天莫空勾践 時非無范蠡
御警固の武士共、朝(あした)に是を見附て、何事を如何なる者が書たるやらんとて、読かねて、則(すなはち)上聞に達してげり。主上は軈(やが)て詩の心を御覚(さと)り有て、龍顔(りようがん)殊(こと)に御快く笑(ゑま)せ給へども、武士共は敢(あへ)て其来歴を不知(しらず)、思咎(おもひとがむ)る事も無りけり。
このあと天皇は隠岐へと連行されたが、翌年になって脱出に成功する。それは名和長年の功績であって、児島高徳ではない。美女を幕府に送り込んだとも聞かない。おそらく高徳は、正攻法を信条とする一途な武将だったのだろう。范蠡となってみせると言いながら、范蠡にはなりきれなかったようだ。
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