すず派?アリス派?どっちも派!と書いたのが2017年12月のこと。美人姉妹松風・村雨と在原行平との出逢いを紹介した「まつとし聞かば今帰りこむ」の冒頭である。
2020年5月のgooランキングによれば「芸能界一美しい姉妹」第1位は、やはり広瀬アリス・広瀬すず姉妹であった。入れ替わりの激しい芸能界にあって、何年もトップを維持するのは並大抵ではない。
本日も美人姉妹と行平の惜別の歌を採り上げる。前回は須磨編だったが、今回は因幡編として鳥取市からレポートしよう。
鳥取市国府町庁に「在原行平歌碑」がある。背景の山を稲葉山という。
歌は小倉百人一首16番として知られ、『古今和歌集』巻第八「離別歌」の巻頭を飾る名歌(365)である。
題しらず
立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
在原行平朝臣
「待ってる」と聞いたらすぐに帰ってくるよ。伝えたい気持ちは下の句で、上の句は「別れ」「因幡」で状況説明をしている。誰とどこで別れたのだろうか。説明板を読んでみよう。
中納言在原行平(八一八-八九三)は平城天皇の孫で、在原業平の兄である。斉衡二年(八五五)行平は因幡国司に任ぜられ、四年後帰京した。古今和歌集にあるこの歌は小倉百人一首に選ばれ多くの人々に知られている。因幡には次の伝承が残されていた。
行平が因幡に来る途中、須磨の浦で汐汲みをしていた松風・村雨の姉妹にあい、二人を連れてきた。その行平が帰京するときの姉妹との惜別の歌というのである。
稲葉山には行平の塚という宝篋印塔と、その近くに松風・村雨の墓という塚がある。
平成九年十一月吉日 国府文化協会
前回の須磨編では、須磨へ流された行平が都に帰るときに松風村雨の美人姉妹に残したのが「立ち別れ」の歌である。因幡編では、因幡守を務めた行平が都に帰るときに美人姉妹に残した歌である。どちらが正しいのか。稲葉山に登ってみよう。
鳥取市滝山に「在原行平歌碑」がある。平成21年の建碑である。
歌碑の場所としては稲葉山が望める国庁跡付近がふさわしいが、歌枕の山中にあるのもよいだろう。近くの説明板では地元の言い伝えが詳しく紹介されている。読んでみよう。
松風 村雨の伝説
昔、在原朝臣行平は、因幡の国守を拝命して任国へ下った。途中、須磨の浦で、潮汲む美しい姉妹の松風、村雨を見そめ、同行させた。そして四年間、稲葉山のふもとで楽しい生活を送ったが、任期満ちて行平は帰京した。そのとき寵愛した姉妹との惜別の情断ちがたく、詠んで与えたのが次の一首である。
「立ち別れ 稲葉の山の峰に生ふる 松とし聞かば 今かへり来む」
その後、松風、村雨の姉妹は、思い出だけを生きがいにして、岩美郡福部村左近のむらに人目を避けて、生涯を終えた。今、このむらの旧家村田家では、松風、村雨の後裔と称し、先祖にあたる三人の位牌を祀っている。また、稲葉山頂上近くの行平塚という宝篋印塔は、同じく先祖にあたる三人の墓と言い伝え、盆には、必ず同家で供養することを忘れない。さらに、福部村蔵見むらの、貞信寺では、松風、村雨の護持仏であった聖観世音菩薩をご本尊にしている。(旧福部村誌より)
斉衡二年(八五五年)因幡の国守を拝命した中納言、在原行平が四年の任期満ちて都へ帰る時、寵愛した姉妹、松風、村雨に詠んで与えた一首は小倉百人一首(第十六番)に残り日本を代表する和歌として多くの人に親しまれています。
また、松風、村雨との悲恋物語は謡曲「松風」はじめ能や文学等、全国に伝承されています。
歌の解釈 再会を誓う和歌です。
稲葉の山の峰に生えている松の名のとおり、あなたの待っているという言葉を聞いたならばすぐにでも帰ってきましょう。
須磨から松風村雨を因幡に連れて行ったはいいが、そのまま残して帰るのはいかがか。せめて故郷の須磨に戻してやるべきではなかったか。伝説は理屈通りには展開しないから、美人姉妹は因幡の人になったのかもしれない。行平を含め三人の墓があるという場所に行ってみよう。
鳥取市国府町美歎(みたに)に「在原行平の塚」がある。
国府町庁の在原業平歌碑の説明板には「稲葉山には行平の塚という宝篋印塔と、その近くに松風・村雨の墓という塚がある」とあるから、これだろう。塚の入り口にある説明板を読んでみよう。
在原行平の塚
稲葉山には在原行平の墓だと伝承されている塚がある。行平が歌った歌に「立ちわかれ いなばの山の 峰に生ふる まつとしきかば 今帰りこむ」というものがあり、百人一首の歌として古くから親しまれている。行平は斉衡二年(八五五)正月に、因幡国の国守に任ぜられているが、この歌には二つの解釈がある。
ひとつは、因幡国に出発するのに、都で別れを惜しんで歌ったものとする説。今ひとつは、因幡国へ下る途中、須磨の浦で潮を汲む美しい姉妹の松風・村雨を見そめ因幡へ同行させ、四年間、稲葉山のふもとで楽しい生活を送ったが、任期満ちて行平が都へ帰るとき、寵愛した姉妹との別れを惜しんだ歌だとする説。
在原行平は寛平五年(八九五)に京都で亡くなっており、この塚は因幡にいた行平をなつかしく思い、土地の人達が造ったものであろう。
この説明板の内容はよい。歌が詠まれた場所は京と因幡の二説あること、この塚が後世の供養塔であること、この2点において客観的な説明である。先述のように歌の場所は須磨説もある。京、須磨、因幡いずれが正しいのか。
おそらくは京が正しい。行平が因幡国へ赴くとて、知人が送別会を開いた。宴たけなわとなったころの会話
「こんどの任地は因幡山が名高いらしいな。」「そこまでは、ずいぶん山道とか。」「マジで、行平が行っちゃうなんて、さびしすぎですう。」
「ほんとありがと。みんな、俺のこと忘れないでくれよ。帰りを待ってるって聞いたら、すぐにでも帰ってくるからな。」
「ははは、待ってねえから安心して行ってこい。無理すんじゃねえぞ。」
しかし、同じ別れなら男女の別れのほうが物語として面白くなる。中世に謡曲『松風』が成立し、「まつとし聞かば 今帰りこむ」が松風村雨の美人姉妹と結び付けられるようになった。
「立ち別れ」の歌を鑑賞するのに、最もふさわしい場所はどこだろうか。行平が国司赴任にあたって歌を詠んだ場所は、京都である。詠み込まれた歌枕を鑑賞するなら、因幡の稲葉山だ。歌から発展した謡曲も含めて楽しむなら、摂津須磨がよいだろう。この名歌は一粒で三度おいしい。