峠の頂で道に寝転がり空を見上げたことがある。空に吸はれし十五の心なら絵にも歌にでもなりそうだが、そんなに若くはなかった。車がめったに来ないからこそできた、ちょっとした思い出づくりである。自分はどこから来て、どこへ行くのか。先のことなど考える気にもならない二十代後半だった。
実際には新庄から蒜山に向かっていた。今は野土路トンネルで快適に走行できるが、当時は野土路乢(のとろたわ)を越える曲がりくねった細道しかなかった。峠に向かう道の途中で名瀑と名水があったのを憶えていたので、今回はその再訪記である。野土路乢への峠道は通行止めになっているようだ。
岡山県真庭郡新庄村野土路に「野土路の水」という湧水がある。
真夏なら涼を求めて清冽な水を口に含んだだろうが、今回訪れたのは真冬。雪に閉ざされていないだけラッキーだと思わねばなるまい。この水は勝山の殿様をうならせた名水だという。新庄村教育委員会『わたしたちの新庄村』に、次のように紹介されている。
名水「野土路の水」
勝山のお殿様が、見まわりの時にこの水を飲み、「このようにおいしい水はどこをさがしてもない。」とほめたたえました。このお殿様が臨終(命がなくなるまぎわ)の時、この水の味がわすれられず、もう一度「野土路の水」を飲みたいからくんでくるよう家来に命じました。
家来は、片道35キロメートルもの道のりを行って帰るには、あまりにも遠すぎて、お殿様の臨終に間に合わないと思い、8キロメートルほど歩いた勝山の神代で谷水をくんでひきかえし、お殿様にさし出しました。
家来が途中から持ち帰った水とは知らないで、この水を飲んだお殿様は「長い間飲まないうちに野土路の水の味もずいぶんおちたものだ。」となげいてなくなられたといい伝えられています。
落語「目黒のさんま」のような話だが、おもしろい内容ではなく気の毒なばかりだ。勝山のお殿様とは、いったいどなたなのだろうか。新庄村が勝山藩領となったのは明和元年(1764)。三浦明次が転封により三河西尾から美作高田に移り、高田を勝山と改称したのである。
以後幕末までに三浦家は十代のお殿様を輩出した。それぞれどこでどのように亡くなったのか分からないが、第五代藩主誠次(のぶつぐ)公をはじめ、幾人かの墓所は勝山の安養寺にある。もしかすると勝山で亡くなったお殿様の本当の話かもしれないし、目黒のさんまを参考に創作された話かもしれない。
道を挟んで反対側に「野土路五段滝」が見える。この時季なら葉が落ちているので滝が見えやすいそうだ。
見まわりに来たお殿様も、この滝を愛でたのだろうか。それとも領内最大の名瀑「神庭の滝」の迫力を知っているだけに、「滝は神庭に限る」とつぶやいたのだろうか。
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