皇位継承の在り方について検討していた有識者会議が、女性皇族が結婚後も皇室に残る案と旧宮家の男系男子を養子縁組する案を示した。女性・女系による皇位継承に寛容な国民世論とは乖離した内容であり、本気で皇統を守ろうとする気概が感じられない。保守派に配慮したのかもしれないが、保守派を自任する人々は陛下が旧皇族の復帰をお望みだとでも思っているのだろうか。前首相は五輪に反対する人を「反日的」と言った。果たしてそうか。五輪に対する国民感情に思いを致された陛下の御心を一顧だにしない輩こそ反日分子に他ならない。
忠臣はどこに行ってしまったのか。天皇という玉を都合よく利用しようとする輩に政治を任せるわけにいかない。逆説的に聞こえるかもしれないが、かつての左派、今でいうリベラルな人たちの主張こそよほど愛国的である。
忠臣を国家が認定していた時代があった。南朝を正統とし、南朝に味方した武士は皆、忠臣とされた。本日は大正時代に忠臣として認定された人物の顕彰碑をレポートする。
岡山県勝田郡勝央町植月中の植月城跡に「宮山城址」と刻まれた石碑がある。大正六年の建碑で「従二位勲一等男爵千家尊福書」とあるから、出雲国造家で貴族院議員の千家尊福(せんげたかとみ)の揮毫である。
城跡といっても険しい山城ではなく居館跡で、石碑の北側に土塁が確認できる。説明板がないので城主の名が分かりにくいが、右側の黒っぽい石碑が手掛かりとなる。碑には「贈正五位植月重佐碑」と刻まれている。「正二位勲一等菅原修長書」とあるから、こちらは高辻修長(たかつじおさなが)子爵の揮毫である。
なぜ高辻家なのか。この公家の本姓は菅原朝臣で、先祖は菅原道真公である。いっぽう、顕彰されている植月重佐は美作菅家党という武士団に属し、こちらも菅原道真公の子孫を名乗っている。植月氏と共通の祖先をもつ高辻(菅原)修長こそ、顕彰碑の揮毫にふさわしい、というわけだ。裏面の碑文を読んでみよう。
贈正五位植月重佐ノ碑
重佐は通称を彦五郎と云ふ菅原氏の族類美作国に繁衍して菅家一党と称せらる植月氏亦其一なり元弘三年閏二月後醍醐天皇隠岐国より伯耆国船上山に潜幸し給ふや菅家一党急に赴きて王事に勤めたり是より先き赤松則村護良親王の令旨を奉じて兵を挙げ三月諸国の官軍に率先して京都に進撃せしが菅家一党兵三百余騎を以て之に加はれり然るに衆寡敵せず木幡の一隊先づ敗れ作道の一軍亦潰えたり是時菅家一党競ひ進んで四条猪熊に至り敵兵千余騎と会戦刻を移し友軍の敗走を見るも敢て退かず奮闘節に殉ぜし者二十七人重佐終に敵と耦刺(ぐうし)して死せり既にして千種忠顕足利高氏等大挙して来り援け六波羅を攻䧟(※陥に同じ)せり五月車駕還幸あらせられ則村兵庫に奉迎せしに天皇恢復の功を以て則村の忠効に依ると仰せられ親ら錦直垂を賜うて其労を犒(ねぎら)ひ給へり重佐の子孫世々植月郷に居り永正中彦次郎基佐其日吉社を造立せり後農に帰し推されて荘屋となれる者あり重佐の為めに小祠を建て其祀を絶たず大正八年十一月十五日天恩枯骨に及びて重佐に正五位を贈らる是に於て重臣首唱して族人と力を戮(※正しくは勠=あわ)せ城址の地を卜して碑を建て余をして其事を録せしむ惟ふに鎌倉幕府の世治平百五十年頗る恩を施して士心を得たり天業の回復決して容易の業に非ず然るに菅家一党忽ち召命に応じて誠款を致し闔族(こうぞく)終に難に殉ず其忠烈正さに鬼神を泣かしむる者あり赤松則村首功の栄誉を荷へる者重佐等の忠死与■て大に力ありと謂ふべし■■の■■啻(ただ)に其後葉をして感奮興起せしむるに止らんや
大正十一年五月
京都帝国大学教授従四位勲三等文学博士三浦周行撰竝書
植月重佐は通称を彦五郎という。菅原道真公の一族は美作国に広がり菅家党と呼ばれた。植月氏はその一族である。元弘三年閏二月後醍醐帝が隠岐を脱出して船上山で挙兵するや菅家党は急ぎ駆け付け行動を共にした。これより先、赤松則村が護良親王の令旨を奉じて兵を挙げていたが、三月には諸国の反幕府勢力に先駆けて京に進撃し、菅家党も三百余騎で加わった。ところが衆寡敵せず、木幡の一隊に続いて作道の一軍も崩れた。この時、菅家党は競うように進んで四条猪熊に至り、千余騎の敵兵と会戦した。友軍の敗走を見ても退くことなく奮闘し、節に殉じた者は二十七人。重佐はついに敵と刺し違えて死んだ。その頃には千種忠顕や足利高氏等の援軍が大挙してやってきて、六波羅探題を攻め落とした。五月、帝がお帰りになるというので則村が兵庫でお迎えすると、王政復古はそちのおかげじゃとのお言葉があり、親しく錦の直垂を授けて労をねぎらった。
重佐の子孫は代々植月郷に住み、永正年中(16世紀初め)の彦次郎基佐は日吉社を建てた。後に農業に従事し推されて庄屋となる者もいた。重佐のために小さな祠を建て祀りを欠かさなかった。大正8年11月15日、天恩は遥か昔に亡くなった重佐にも及び、正五位を贈られることとなった。そこで家中の者が提案して末裔の人々と協力し、城跡の好地を選んで建碑し私にそのことを記録させた。
思うに鎌倉幕府百五十年の太平は武士の支持を得ていたことから、王政復古は決して容易でなかった。それにもかかわらず菅家党はお召しに応じて真心を尽くし、一族は命をなげうって戦った。その忠烈は鬼神でも泣くほどだ。赤松則村の功績には重佐等の奮戦が大いに影響しているといってよいだろう。この碑を建てたことで、後世の人々がよしやるぞと奮起してくれるのを願うばかりである。
重佐ら美作菅家党の奮闘については『太平記』に詳しく記されている。以前の記事「美作を代表する武士団の忠義」で原文と意訳を紹介しているので参照していただきたい。王事に奔走した忠臣であるがゆえに、正五位が贈られたのである。
この碑文を撰した三浦周行は出雲出身の歴史学者。千家男爵も三浦先生も出雲ゆかりの方だが、植月氏も出雲の雄尼子氏に仕えたという実績がある。しかも尼子再興軍と運命を共にしたという鬼神を泣かせる忠義の持ち主だ。
令和の世に忠臣はいるのか。五輪開会式で陛下の開会宣言が始まった際、平然と着座していた菅首相には忠義の気持ちがあるのか。我が国の象徴として常に国民に心を寄せていらっしゃる天皇への敬意はどこにあるのか。おそらく宣言という役目を担う官僚の一人くらいの認識だろう。起立のアナウンスができなかったためというが、促されるものではなく自覚しておくべき常識だ。
現実には立とうが座っていようが、五輪は始まるし始まれば盛り上がった。まあ、目くじらを立てることでないかもしれない。だが、この不起立問題は現政府と皇室との関係を如実に表しているように思えてならない。表現の不自由展が賛否両論で炎上したが、君側の“菅”に起立不起立という自由はない。