『春日局』は昭和最後にして平成最初の大河ドラマであった。しかし、まったく見ていない。そもそも興味がなかったのだが、それ以上に見る余裕が物理的にも精神的にもなかった。黒歴史を私は生きていた。
春日局について認識するようになったのは、『江~姫たちの戦国~』で富田靖子さんが演じているのを見てからのこと。3代家光は生まれながらの将軍と呼ばれるが、竹千代に将軍への道を開いたのは、実に春日局であった。
春日局、幼名お福はどこで生まれたのだろうか。本日は生誕地からのレポートである。
丹波市春日町黒井の興禅寺に「お福産湯の井戸」がある。
春日局が明智光秀の重臣、斎藤利三の娘だということは有名だが、出生の場所を知る人は少ないのではないか。春日町という地名は、この地方が大和の春日大社の荘園であったことに由来するようだ。春日局という称号は朝廷から賜ったものだが、出身地に由来するとも先例に倣ったとも言われている。
光秀の丹波攻めにより、赤井氏の黒井城は天正七年(1579)に陥落する。城は斎藤利三に預けられ、南麓に置かれた下館(現在の興禅寺の地)が、西丹波当地の拠点となった。そして、この年の暮れに屋敷で女の子が生まれた。産湯に使われた水は、写真の井戸から汲まれたという。説明板を読んでみよう。
お福産湯の井戸
指月殿(経蔵)の裏手にあり、深さ約1.7mで清らかな水をたたえています。お福が生まれたとき、この井戸の水を汲んで産湯に使ったと伝えられています。
大きな屋敷はお福の格好の遊び場となった。今の境内にはゆかりの石が、美しい庭石として大切にされている。
「お福の腰かけ石」と呼ばれている。説明板を読んでみよう。
お福の腰かけ石
本堂の右前にある平たい大石で、よちよち歩きのお福(のちの春日局)が、腰をかけて遊んだ石と言い伝えられています。
産湯井戸にしろ腰かけ石にしろ、真実だとする確たる証拠があるわけではないが、ここで生まれたとしたら蓋然性は極めて高い。ただし平穏な日々が長く続くことはなかった。説明板にお福の幼少期がうまくまとめられているので読んでみよう。
お福(のちの春日局)の生い立ち
長い戦乱が続いて荒れ果てた丹波の地にもようやく平和が蘇り、戦火を避けて他の地に移っていた領民もぞくぞくと帰ってきて、黒井の城下も再び活気を取り戻しました。
そのころ、斎藤利三は坂本の城にいた妻のお安と子供たちをこの陣屋に呼び寄せました。そして、この年天正7年の年の瀬も押し迫った頃、呱呱(ここ)の声をあげたのが後の春日局(幼名お福)です。
お福は、両親の愛情をいっぱいに受けてすくすくと成長しました。毎日のように広い陣屋の庭や、城下の野山を遊びまわり、その可憐さと利発さは城下の領民たちの目を引き、斎藤屋敷のお福様と呼ばれて誰からも愛されました。今、興禅寺には「お福の産湯井戸」「お福の腰かけ石」などが残り、往時を忍ぶ縁となっています。
お福は、物心のつく3歳の冬までこの地で育ち、天正10年4歳の春には丹波亀山城(現京都府亀岡市)にいましたが、父利三が本能寺の変後、山崎合戦で敗れ、京都の六条河原で処刑されるという悲惨な姿を目の前に見ています。
それ以来、後年春日局となって波乱に富んだ生涯を終えるまで、いつも頭の中に去来するのは、幼い頃のどかな自然の中で両親や兄弟と、そしてあたたかい城下の人たちに囲まれ育った、この黒井の陣屋での平和で楽しかった3年の年月であったと思われます。
平和な環境ですくすくと育ったが、本能寺の変により激動の歴史に投げ出される。しかし、本人の器量といくつかの幸運で人生を切り開き、最終的には従二位を授かるまでに上り詰めた。これも三歳の冬までに黒井城下で育まれた自己肯定感あればこそなのだろうか。その頃の姿を映した像がある。
丹波市春日町黒井のJR黒井駅前に「お福(春日局)の像」がある。
駅前にその土地の偉人像があるのはよくあることだ。一番強烈なのは岐阜駅前の金ピカ信長像だろう。さすがに最近はマスク姿だとか。しかも美濃和紙製。いっぽうこちら黒井駅は子どもの像だ。手にしているのは葉っぱかクッキーか。信長公に比べると素朴そのものである。副碑には次のように刻まれている。
お福(春日局)の像
戦国末期の天正七年、黒井城落城とともに明智光秀の家臣斎藤内蔵助利三が入部、陣屋(現在の興禅寺)を構えて戦後の治政に当った。年の瀬も押し迫ったころ、この陣屋で呱々の声をあげたのがお福、後の春日局である。
お福は城下の野山をかけ廻り、その可憐さと利発さは領民たちの目をひき誰からも「斎藤屋敷のお福さま」と呼ばれて愛された。
後年徳川三代将軍家光の乳母となり、大奧で権勢を振うようになってからも、いつも懐かしく思い出されるのは、この地で過ごした幼い頃の年月であったと伝わっている。
町制四十周年記念 平成七年秋
春日町観光協会
人間の成長には愛が欠かせない。与えられた愛が自信となって自己愛となり、他者に施すことのできる愛情となるのだ。のちの春日局は三歳までにつくられていた、と言うつもりはないが、よく遊びよく愛される環境が大切なことに異論はないだろう。