かつて島左近、平田靱負の記事を書いたことがある。浅野大学、竹内式部、山県大弐、長井雅楽など、官職のような名前の人物が歴史にはよく登場する。長年不思議に思っていたが、最近読んだ『氏名の誕生-江戸時代の名前はなぜ消えたのか―』ちくま新書で、やっと分かった。百官名(ひゃっかんな)という官職由来の名前だそうだ。〇右衛門とか〇兵衛というお百姓さんの名前も同じである。
もとの官職の意味は考慮されず、響きのよさかノリ、もしくは常識的な名前として付けたのだろう。現代では片山さんとか杉下さんの右京が有名だが、隼人(はやと)も男児の名前として人気だ。本日の記事には長尾隼人さんが登場する。
庄原市東城町東城に「五品嶽城跡」がある。上は天守台のある常の丸、下はその向こうに続く尾根を遮断する大きな堀切の底である。
「東城」という地名を象徴する大きな城で、いくつもの郭を巡りながら上へと向かうが、けっこう急峻で守りは堅そうに思える。しかも、東城の町並みを一望できる好立地だ。中腹の井戸近くにある説明板を読んでみよう。
広島県史跡 五品嶽城跡(ごほんがたけじょうせき)
所在地 広島県庄原市東城町大字東城字五本ヶ嶽山7番地の1ほか6筆
指定年月日 昭和62年3月30日
この城跡は、戦国時代から江戸時代初頭にかけての山城で、五本竹城・世直城ともいわれた。築城年代は明らかでないが、宮氏が築城し、のち大富山城を築いて西に移るまで、宮氏の本拠とされた。以来、宮氏はこの城を東城、大富山城を西城と呼んだ。宮氏が毛利氏の命で出雲に転出したあと、天正19年(1591)には石見国から佐波越後守広忠が東城城主として赴任した。佐波氏は菩提寺を川東の千手寺に合併し、寺領を寄進している。しかし佐波氏も慶長5年(1600)の関が原の戦いののちは毛利氏に伴って萩に移った。毛利氏に代って芸備の太守となった福島正則は、その三家老のひとり長尾隼人正一勝を東城の城主に任命し、備中・伯耆の国境守備にあたらせた。長尾氏は帝釈の永明寺に鉄製の鰐口を、川西の法恩寺には大般若経600巻を寄進している。しかし元和元年(1619)には福島正則も広島城の無断改修を理由に改易され、長尾氏も津山に去って、この城は廃城となった。
この城は東城の町並みを東眼下に見下せる通称城山(標高490m、比高170m)に築かれたもので、西側に続く山並みとは鞍部を掘り切って深さ約15mの堀切としている。郭群は頂部の常の丸、太鼓の平(なる)を中心に北東方面にのびる尾根の上にケヤキが平、カヤの平とほぼ連続して設けられているが、山麓にも杉の平、物見が丸などの郭がみられる。
この城跡は、中世遺構の上に近世初頭の技術が加えられている点に特色がある。近世初頭以降は完全に近く保存されており、学術的に貴重である。
昭和63年9月30日建設
広島県教育委員会 庄原市教育委員会
宮氏は備後を代表する国人領主だったが、毛利氏に屈服して出雲に転出する。毛利氏の代官である佐波(さは)弘忠は、関ヶ原後に萩に移る。福島氏の代官である長尾氏は、正則の改易に伴って作州津山へと退去する。『津山市史』第三巻近世Ⅰには次のように記されている。
福島正則の家臣の長尾隼人一勝は、福島家三傑の一に数えられ、高一万三、〇〇〇石を領して備後東城の城を守った。その子出羽もまた有為の人材で、忠政は小田原攻めの時すでにこれを知っていたため、福島家除封のあと出羽を美作に迎え、高三、〇〇〇石を給して重臣に列した。
大名並みの一万三千石を領した長尾隼人。その立派な墓が城近くにあるので行ってみよう。
庄原市東城町川東の千手寺前に「長尾隼人供養塔」がある。地元では「公」という敬称を付けて呼ばれているようだ。
詳細な説明があって大変ありがたい。読んでみることにしよう。
庄原市重要文化財
長尾隼人供養塔(ながおはやとくようとう)
指定年月日 昭和40年11月1日
所在地 庄原市東城町川東123
員数 1基
構造及び形式 花崗岩製 塔高2.63m
慶長5(1600)年10月に福島正則が広島城主になると備中・出雲両国と接している重要拠点である東条(現東城)の五本竹(現五品嶽)城には重臣の山路久之丞(きゅうのじょう)を配し、山路という名字は相性が悪いので「長尾隼人」と改めさせた。
長尾隼人は伊勢国河曲(かわわ)郡の生まれで、関ヶ原の戦いでは福島軍の先鋒隊を勤めて武勇をとどろかせ徳川家康も戦功を讃えている。長尾氏の慶長末年の知行高は1万282石4斗であり、五本竹城を「世直城」と改称し、城下の基盤と機構の整備に力を注ぎ町場の形成発展に大きく貢献した。
長尾隼人は元和4(1618)年11月29日に逝去し、広島城下の国泰寺に葬られているが、翌年1月に嗣子の勝行が供養のため、前方に城を望む千手寺境内に健立したのが、この五輪塔である。
地輪は台座の上に据えられ、正面に隼人の略歴などが刻まれている。水輪は楕円形であるが、やや上ぶくらみの感がする。火輪は水輪よりやや小さく、軒の上端の隅が反らせてあるのに対して下端隅にやや反りが認められる程度である。風輪は桶形で上部はややくぼみをもち空輪を支えている。
五輪塔としては、室町末期から江戸初期に一般的にみられる型のものがあるが、備北地方最大級の形の整った五輪塔であるとともに、史料的にもはっきりしており極めて重要である。
平成31年3月 庄原市教育委員会
健立は建立の誤りだ。元和四年十一月に隼人逝去、同五年一月に嗣子の出羽勝行が墓碑建立、そして六月には主家改易という目まぐるしさである。職を失うという人生最大の危機であったが、森忠政の知遇が幸いして作州津山藩に仕えることができた。
出羽勝行の子共勝(隼人・内膳)の時には、禄高が三千石から四千石へと加増された。共勝の跡を継いだのは雲州松江藩の重臣土屋氏出身の隼人勝明である。津山藩4代目の長成よく補佐して治績をあげた。『太平記』屈指の名場面「白桜十字詩」の舞台となった院庄を顕彰した文化財保護の先駆者でもある。
だが元禄十年(1697)に森家が改易となり、長尾家は再び主家を失うこととなった。勝明は生国出雲へ退き、禄高五百石で松江藩主松平家に仕えたという。その死後二百年以上の時を経た大正八年(一九一九)、勝明は正五位を授けられた。その理由を『贈位諸賢伝』二(国友社)から引用しよう。
夙に勤王の志厚く、領内院庄なる元弘播遷の遺蹟湮滅せんことを憂ひ、貞享四年七月、碑を立て、児島高徳の忠誠を表彰す、即ち湊川建碑の歳に先つこと五年、世伝へて美挙を為す
「勤王」が人物評価の基準だった時代である。東城時代に一万三千石、津山時代は四千石、松江に去って五百石と禄高は下がったものの、後醍醐天皇ゆかりの地を保護したことで「正五位」を授けられるという名誉を得た。
長尾隼人。その名は福島家三傑に数えられた武勇の家老、美作一国を支えた森家の名家老、そして勤王の人物として歴史に名を残した。同じ隼人の男児は全国にたくさんいるだろう。隼人よ、君の歩む洋々たる前途に幸多からんことを。