古墳時代の人々は何をして暮らしていたのだろうか。あれだけたくさんであれほど大きな古墳を造ろうと思えば、相当な労力が必要だ。古墳づくりに勤しむ毎日だったのでは、と思えるくらいだ。古代エジプトではピラミッド建設の報酬としてビールが与えられていたという。ヘロドトスが記した奴隷労働ではなかった。では、我が国の古墳築造では、どんな人がどのように働いていたのだろうか。
岡山市北区大安寺中町の矢坂山中腹に「法事古墳」がある。
このあたりには古墳が多いようだが、このように美しく残存する古墳は珍しい。説明板を読んでみよう。
法事古墳
この古墳は横穴式石室墳といい、六世紀後半(今から約千四百年前)に築造れた墳墓で、石室に出入りができるようになっていて古墳を築造した家の人々が次々に葬られた代々の家族墓です。墳丘は流失していますが十数メートルの円墳で遺骸を葬る石室は長さが約八メートルあります。石室は、遺骸を安置する玄室と入口の羨道からなり、玄室が長さ四・二メートル、幅一・八メートル、高さ一・ハメートル、羨道が長さ二・七メートル、幅一・ニメートルです。
この古墳は、東正野田(ひがししょうのだ)から大安寺にかけての山や谷に築造されている多くの横穴式石室墳のうちでは大形のもので、当時この地域を支配していた有力者の墓です。従ってこの地域の歴史を考えるうえからもかけがえのないものです。また、この地の祖先が残した私たち共通の文化遺産として大切にしなくてはならないものです。
このような古墳をはじめ遺跡をかってに掘ったり壊すことは、法律で固く禁じられており、もしこれを犯すと罰せられます。
昭和四十七年十月二十九日
地主 井上志保美
岡山市教育委員会
なるほど、追葬可能な横穴式石室を備えた大きな円墳だと分かる。被葬者が地域の有力者であろうことも容易に想像できる。しかし、それ以上のことは分からない。住民こぞって勤労奉仕をしたのか、専門業者に任せていたのか、それとも報酬として日本酒がふるまわれていたのか。
遥か昔に建設されたピラミッドのほうが詳しく分かるのは、やはり文字があるからだ。エジプト文明の偉大さはまさにそこにある。我が国も中国文明の一員として文字を知らないはずはなかっただろうに。記録されないものはなかったことにされてしまう。「記録も記憶もございません。」とか、今さら隠す必要もないだろう。
古墳は矢坂山の南向き斜面にある。古墳時代には麓まで海が広がっていたという。数十メートルの大きさというから、海からもよく見えたことだろう。存在をアピールする何らかの意図があったに違いない。
矢坂山では万成石というブランド石材が採掘されている。この古墳の石材もそうなのだろうか。高級石材で見晴らしの良い場所に築かれた巨大墳墓。これほどの待遇は相当な有力者でないとできないだろう。
その財力の源泉は何だったのか。後背地での農業生産だったのか。海上輸送での交易だったのか。文字が残されていないために、さっぱり分からない。エジプトには、どうやっても勝てそうにない。せめて古墳完成の祝宴跡でも発掘されたら、エジプト並みになるのだが。