ミカンのへたは下向きにして保存するのがよいという。そういえば、下向きに並べられた贈答品を見たことがある。また、ミカンのむきかたにはへそ派、おしり派、和歌山むきなど諸派あるようだが、へたから向くほうが白い筋が取れやすいそうだ。
うちにはミカンの木があり、今年も青い実がたくさん生っている。シーズンには少し早いが、みかんのへたと古墳のコラボレーションをお届けしよう。
赤穂市坂越に「みかんのへた山古墳」がある。
墳丘に立つと坂越湾が一望でき、写真でも手前に鍋島、右向こうに生島を確認できる。古い写真を見ると、こんもりした山の上に「みかんのへた」のような高まりがみられる。つまり、へたそのものが円墳なのであった。説明板を読んでみよう。
県指定文化財 みかんのへた山古墳
昭和五十年三月十八日指定
この地は、標高七九mの「みかんのへた山」頂上である。ここから南方眼下に鍋島が見おろされ、西南方に樹林に覆われた生島(いきしま)の美しい景観がみられる。また目を東南に転じると、遠く家島群島の島影が臨まれる景勝の地点である。
本墳は、径約三〇m、高さ三・五mで、葺石・円筒埴輪が見られる。内部主体については、発掘調査が行われていないので明らかではないが、墳頂径一〇mが平坦であることから竪穴式石室の構造で、古墳時代中期のものと想定できる。
また、古墳の立地が、このように瀬戸内海を見おろす景勝の地であることから、海上に活動の場をもった氏族の首長の営んだ墓であろう。同様の古墳としてたつの市御津町黒崎にある輿塚(こしづか)古墳がある。
海に関連をもつ古墳の典型として価値が高い。
兵庫県教育委員会
墳丘の表土がむき出しになっているのは、近年発掘調査が行われたためだ。円筒埴輪や形象埴輪のほか、鉄製甲冑や鉄剣の破片も出土した。特に鉄製甲冑片の出土は西播磨地区で三例目で、大和王権との深いつながりが考えられるということだ。
山を下りて、さらに東へと歩こう。鞍部を越えると相生市に入る。坪根(壺根)漁港では、牡蠣の直売所や牡蠣小屋が営業していた。一年があと数日で終わろうとする時季のこと。牡蠣を横目に私が向かったのは、突崎にある古墳群である。
相生市相生字竹之浦に「壺根古墳群」がある。下の写真は「坪根6号墳」である。
現代の霊園が古墳になったようなもので、かなりの密度で古墳がある。説明板を読んでみよう。
壺根古墳群
昭和56年夏の調査で、約9基の古墳が発見されました。古墳の間隔が約3m前後で、ほぼ同じような密度をもって分布していたことから、おそらく計画的に埋葬が行なわれたものと考えられます。災害によって消滅した古墳もありますが、総数として30基を超えていたのではないかと考えられ、市域でこれだけまとまった数を持つ古墳群は、他にはありません。
墓の構造はすべて箱式石棺と呼ばれる形式で、地山を浅く掘り込んだ中に数個の板石を立てて、長方形の棺身をつくり、上に石を置いて蓋としています。石材は、この山の溶結凝灰岩を使用していますが花崗岩も一部混ざっています。
被葬者は海の民とも考えられますが、副葬品は、鉄刀子、滑石製の勾玉と白玉、棗玉、直径2cmの青銅製鏡、鉄製釣針等ありましたが数が少なく、海の民であったことを示すものはほとんどありませんでした。
この古墳群は、土師器、須恵器の破片等から五世紀中頃~六世紀に造営されたものと考えられています。
昭和57年2月 相生市教育委員会
墳丘のない箱式石棺があちこちにあるが、いったいどのような人が葬られたのか。「海の民」は、世界史においてはヒッタイトや古代エジプトに侵入した謎の民族だが、ここでは漁師のことだろう。
数は少ないが副葬品もあることから、播磨灘で優越的な漁業権を有するなど、ある程度稼ぎのいい漁師集団だったに違いない。鯛やイカナゴを獲っていたのだろうか。それともやはり、ブランドの相生牡蠣の産直をしていたのだろうか。