今の長さ単位は地球に由来しているが、昔の単位は身体に基づいていたという。尺は親指と人差し指を尺取り虫の動きで2回分。両手を広げたら尋。足の長さはフィート。洋の東西を問わず、身体感覚が分かりやすいのだ。
では「里」とは何だろうか。約4㎞、歩いて1時間の距離である。私の経験則によれば、最寄駅までの2㎞30分なら平気だが、その倍も歩けば歩いた感が充足し、ちょっと休もうかという気になる。おそらく歩き疲れる距離が「里」なのだろう。
宍粟市千種町下河野(けごの)に「一里堂」がある。
よく似た建物に辻堂があり、「備中の辻堂の習俗」「安芸・備後の辻堂の習俗」が国の選択無形民俗文化財に指定されている。確かに、そのあたりに車を走らせると、壁のない四本柱のお堂を見かける。休憩、信仰、祭礼などに活用された公共空間だったようだ。
こちらは一里塚ならぬ一里堂である。茅葺屋根は葺き替えられたばかりらしく、陽を浴びて黄金色に輝いている。説明板を読んでみよう。
宍粟市指定文化財(建造物)
一里堂
このお堂は、間口四・一m、奥行き四・一mの木造平屋建てで、屋根は茅葺きの宝形(ほうぎょう)造りとなっています。江戸時代、主な街道筋には一里ごとの目印として一里塚が設けられましたが、これが地方へ波及したものと考えられます。
ここから南へは、塩地峠を越えて山崎方面へ出る道が通じており、江戸時代には千種からは千草鉄や炭を、山崎方面からは塩・酒・油などの食料品や衣料などの物資を運ぶ道として盛んに利用されました。
宍粟市教育委員会
宝形造で最も知られているのは銀閣である。同じく国宝の鶴林寺太子堂は「勉強する12歳の太子くん」でレポートした。本日の一里堂も指定文化財として評価されている。
一里堂脇の南北の道は、千種と山崎を結ぶ街道だったようだ。地理院地図を見ると、少し南に山中に入る旧道があり、塩地峠が示されている。この道を行く人々の思いは、一里堂の少し北にある石碑に刻まれている。
ふるさと街道 一里堂
昔は、主な街道すじに、旅人の目じるしまた一休みするところとして一里ごとに一里塚一里堂等が設置されていたが、明治以後時代の流れとともに取除かれてしまった。この一里堂は、今千種近郷に残る唯一の一里堂である。
ここ南北に縦貫する街道は山陽側から中国山地を越えて因幡に出る道であった。
千種を旅立ちする人は「これで千種としばしの別れかと」一休みし、山崎方面からの旅人は塩地峠からの峠を下って、「やっと、千種へ辿り着いた」と一息ついて休んだのがこの下河野の一里堂である。
二間四方のお堂は栗柱で造られ昔の姿そのままの萱葺のお堂である。
堂内には、六体の地蔵さんが安置され「天保三辰年四月吉日当村女講中」の銘がある。
平成9年1月吉日 千種ライオンズクラブ
北へ向えば天児屋鉄山跡を通過し、因播国境の江浪峠を越えて因幡に入ることができる。今も鳥取県道・兵庫県道72号若桜下三河線が同じようなルートを通過している。ただし、県境を車で越えることはできない。
ここ一里堂では千草鉄や木炭を運ぶ者が、しばしの休息をしたのであろう。いったいどのくらいの重さを運んでいたのか。運んでいたのは牛なのか馬なのか。さあ、これから峠越えだ。同じ一里でも平地と峠道では、疲れがまったく違う。気合いを入れて一里堂を後にしたことだろう。