「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という戦時スローガンがあった。窮乏生活の原因となる戦争を始めた政府、あんたにだけは言われたくない。それでもこのスローガンは、人生訓にも通ずる含蓄がある。金がないならある物を使え、何もないなら頭を使え、である。
神戸市須磨区天神町二丁目の綱敷(つなしき)天満宮に「綱敷の円座」がある。ここは菅公聖蹟二十五拝の一つという格式ある神社である。
ロープを渦巻き状にしている。彫刻家の岩野勝人(まさひと)氏の制作で、実際に座ることのできる芸術作品である。そしてこの円座こそ、神社の由緒にもっともゆかりのある縁起物なのだ。須磨区役所発行『伝説の須磨』の「須磨と菅原道真」の項を読んでみよう。
九州へ向かう道真一行は、海があれたので、西須磨のあたりに船をつけ、陸に上がりました。そのころの須磨はさびしい漁村でした。漁師たちは道真を浜辺の大きな松の木の下で休ませようとしました。そして、魚をとる網を引くための太い綱をぐるぐると地面にまいて、まるい座席をこしらえました。そうして道真をもてなしました。
ないなら工夫をする。先人たちは皆、そうやって生きてきたのだ。庶民のもてなしに道真公も感激したことだろう。ただし同様な伝説は、今治や福岡など各地に伝わっている。
同じ境内に「影向(ようごう)の松」という巨大な松の一部が保存されている。説明板を読んでみよう。
菅公御左遷の途次(九〇一年)風波をさけてこの地に上陸され松の影に安居し給い須磨の風光を賞でられた
『摂津名所図会』によれば、須磨では橘季祐(たちばなのすえすけ)の家に立ち寄ったという。その子孫が西須磨の旧家として知られた前田家である。
神戸市須磨区天神町五丁目に「菅の井」と「菅公お手植えの松」がある。
ここには、かつて須磨警察署があったが、その昔には前田家の屋敷があった。大正初めの警察署建設に伴い井戸は埋められたが、代わりの井戸が掘られたという。説明板を読んでみよう。
西須磨の旧家である前田家の人が井戸の水をくんで差しあげたところ、道真は大いに喜び自画像を前田家に与えたそうです。前田家では、この井戸を「菅の井」と名付け、その水で銘酒「菅の井」を作って毎年太宰府天満宮へ献上していたと伝えられています。前田家は神功皇后の時代から家名が続く豪族といわれ、その屋敷にあった「菅の井」「菅公お手植えの松」「杜若(カキツバタ)」が今も保存、復元されています。
道真公は、自画像を描き与えたり記念植樹をしたりと、流人ながらなかなか忙しそうだ。このブログでも「桜の華やかさと松のめでたさ」で高砂市、「菅公は安産の神様」で岡山市、「座ることを求めている岩」で尾道市、それぞれで語られる菅公伝説を紹介した。この他にもゆかりの地はたくさんある。
それにしても瀬戸内には、菅公伝説がいくつあるのだろうか。すべてが史実で各地で本当に住民の歓待を受けていたなら、いつまでたっても大宰府に到着できなかっただろう。まあ、都での権力闘争よりも住民とのふれあいのほうが、精神衛生によいことは間違いない。