いまなら週刊誌記者に追いかけ回されたであろう。あるコラムに『和泉式部日記』が「平安の不倫マニュアル」と評されていた。当時の男たちも心奪われたが、後世の人々も気になって仕方なかった。おかげで各地に史跡が残っている。
このブログでも、藤原道長の揶揄「浮かれ女」については「和泉式部が詠んだ幻の歌」で、紫式部の人物評「けしからぬかた」と柳田國男の歌評「へぼ歌」については「和泉式部の小賢しい歌」で紹介しているので、併せてお読みいただきたい。
鳥取市湖山町南一丁目に「和泉式部産水(産湯)の井戸」がある。道沿いに案内標識がなかったら見つからない。閑静な住宅地の中にあるものの、古井戸の雰囲気はない。
和泉式部の出生地(成育地)はいくつかあるようで、佐賀県嬉野市の「和泉式部公園」では銅像が「私のふるさとよ」とアピールしている。それに比べてこちらの産水の井戸はずいぶん控えめだが、井戸という遺構の存在は大きい。説明板を読んでみよう。
和泉式部は平安中期の歌人で因幡守大江雅致の娘で和泉守橘道貞の妻である。第六六代一条天皇の中宮彰子に任え情熱歌人として有名である。産湯の井戸は御井津の井戸とも言われ、水質は湖山随一で式部が生まれたときに産湯に使われたと言われる。
春くれば 花の都を見てもなお 霞の里に 心をぞやる
この歌は式部が京で望郷の思いを詠んだもので、湖山池周辺を「霞の里」と呼ぶようになったのはこの式部の歌によるものである。
大江雅致(おおえのまさむね)が因幡守として赴任していた時に式部が生まれたということだろう。ところが大江雅致が因幡守となったという記録はない。状況証拠の信頼性が揺らぐ。大丈夫か。出生にまつわる史跡がもう一つあるので、そちらを確かめてみよう。
同じく湖山町南一丁目に「和泉式部胞衣塚(えなづか)」がある。
いちばん奥にある石碑が貴重だ。正面は「和泉式部胞衣塚」、左側面には「和泉式部 春来れば花の都を見てもなほ霞の里に心をぞやる」と刻まれている。木が茂って見えない右側面には、天明七年(1787)に藩医で郷土史家の安陪惟親(これちか)が建てたこと、裏面には当地と和泉式部とのゆかりを記しているという。入口右の標柱の説明板を読んでみよう。
和泉式部は、因幡国守・大江定基の娘で、湖山に誕生したと伝えられており、胞衣はここに埋めたといわれている。
一條天皇の中宮上東門院に仕えた平安時代の女流歌人で、情熱的な一生を送り恋愛歌人として有名である。
春くれば 花の都を見てもなお 霞の里に心をぞやる
京都で望郷のうえ詠んだこの歌がもとで、湖山を「霞の里」と呼ぶようになった。
注目すべきは大江定基(おおえのさだもと)が父だという。ところが、この人もまた因幡守となった記録がない。もと官人で『後拾遺和歌集』に載るくらいの詩歌の力量があったが、妻の死を契機に出家し長元七年(1034)に宋で客死している。その才能と経歴が式部の父にふさわしいと思われたのかもしれない。
さて、繰り返し登場するのは「春くれば 花の都を見てもなお 霞の里に心をぞやる」という歌だ。「都は春ね。霞立つ湖山池が懐かしいわ」と故郷を懐かしんでいるという。出典を西條静夫『和泉式部伝説とその古跡』中巻〈京都・山陰・九州編〉(近代文芸社)の示唆に従って調べると、鎌倉中期の私撰集『万代和歌集』巻第十四雑歌一に掲載されていることが分かった。
祐子内親王家歌合に 春たては花の都を見ても猶霞の里に心をそやる 式部
祐子内親王は御朱雀天皇の皇女で、11世紀後半に活躍した人である。11世紀前半に活躍した和泉式部とは年代にずれがあるので、作者の式部はどうやら別人のようだ。おそらく「式部」という名前が独り歩きを始め「和泉」という笠を被って、遥か彼方因幡の地に落ち着いたのだろう。
現代ならばネット上のデータと照合して容易に真偽を確かめられるが、昔だから、そう言われたらそうか、と信じる人が多かったのだろう。江戸時代前期に成立した『因幡民談記』巻之九「名所之部」のうち「和泉式部屋敷」の項を読んでみよう。
高艸郡小山村に在り。和泉式部此所にて出生せしと云ふ。住ける所とて屋敷の跡あり。生れし時かけゝる産湯の水とて、村の内、百姓の家の後ろに水多く湛えたる井あり。昔より殊に味よき水とて名を得たり。元来小山村本名を宇文といふとぞ。此うぶ水有るによりて名を付けるや。但し又宇文といふ名により、附会してうぶ水の事を云伝へけるにや知れがたし。和泉式部が事当国にて出生せり云事、古書にても見ず。其謂れを聞かずと雖も、さる事の必ずしも有るまじきにも非らず。和泉式部は越前守大江雅輔が女、和泉守橘道貞が妻たるにより、和泉式部といふ。丹後へは藤原保昌に具せられ下りける事あり。只当国へは住みけるを聞かず。
宇文(うぶみ)という地名から「産水(うぶみず)」にこじつけたのかもしれない。和泉式部が因幡に生まれたことは古書に記載されていない。ないこともないかもしれないが、因幡に住んでいたとは聞いたことがない。
このように『因幡民談記』は、歴史学の基本である実証主義の立場で史料批判を行っている。事実を見極めようとする冷静な目がそこにあるのだ。これに対して現代の説明板は、すっかり伝説を信じ切っているかのような書きぶりだ。
観光客向けには面白くしなければならない事情を考えれば、「史実と違う」と目くじらを立てるのも無粋かもしれない。ただ、和泉式部でも紫式部でもない第三の地味な式部さんの歌が、遠く離れた因幡の地で勘違いされながら愛されているのは興味深いと思うが、どうだろう。