武士の中でもっとも繁栄したのは清和源氏である。源義家、頼朝を輩出し武家の世を切り開いた。嫡流は頼朝の死後ほどなくして途絶えるが、分流は各地で活躍している。足利氏、新田氏、武田氏が特に有名だが、近世大名にも清和源氏の子孫を名乗った者が多い。徳川氏でさえ清和源氏の流れを汲むように系図を作成している。清和源氏は武家のブランドなのである。
本日は、清和源氏の初代である源経基ゆかりの地をレポートする。
鴻巣市大間字城山に「六孫王経基(ろくそんのうつねもと)城址」と刻まれた石碑がある。大正四年の建立で、揮毫は自由民権運動で名を馳せた河野広中である。この地域の当時の政治色はアンチ政友会だったことから、立場を同じくする河野に揮毫を依頼したのだろう。
源経基は、清和天皇の第六皇子・貞純親王の子であり、清和天皇の孫だから「六孫王」と呼ばれている。この地は「伝源経基館跡」として埼玉県の史跡に指定されている。「伝」とあるように確かな証拠は見つかっていないようだ。
では、どのような文献に伝えられているのか。まずは基本文献となる平安期の軍記『将門記』を見よう。当時の状況説明をする。臣籍降下した源経基は武蔵介として関東に下向した。さっそく武蔵権守の興世王とともに、現地の有力者である足立郡司・武蔵武芝に土地調査を受け入れるよう圧力をかける。武芝が前例がないとして要求を拒否すると、経基と興世王は、兵を繰り出して略奪行為に及んだ。争いを避け避難した武芝は、平将門に調停を依頼する。
時に将門、此の由を急に聞き、従類に告げて云ふ。彼の武芝等は我が近親の中に非ず。また彼の守介は我が兄弟の胤に非ず。然り而して彼此の乱を鎮めんが為に武蔵国に向ひみんと欲すといへり。即ち自分の兵仗を率ゐて、武芝の当の野に就く。武芝申して云ふ。件の権守并に介等は一向に兵革を整へ、皆妻子を率ゐて比企郡狭服(さやき)の山に登るといへり。将門武芝相共に府を指して発向す。時に権守興世王先づ立ちて府衙に出づ。介経基未だ山の陰を離れず。将門また興世王と武芝と此の事を和せしむるの間、おのおの数杯を傾け、たがひに栄花を披(ひら)く。而る間、武芝の後陣等故无くして彼の経基の営所を囲む。介経基未だ兵の道に練れず。驚愕して分散すと云ふ。
武芝から事情を聴いた将門は、家来に言った。「武芝は近親者ではなく、経基にも興世王にも血のつながりはない。この争いを鎮めるため武蔵国へ向かおうと思う。」手勢を率いて、武芝が避難した場所に着くと、武芝は言った。「あの経基と興世王は戦う準備ばかりして、妻子とともに比企郡狭服山に登ってしまった。」将門と武芝はともに国府に向かった。権守の興世王は先に国府に戻っていたが、介の経基はいまだ山を離れようとしない。将門は武芝と興世王とを和解させ、酒がすすんで、華やいだ雰囲気となった。ちょうどその時、武芝の後方部隊がたいした理由もないのに、経基の営所を取り囲んだ。経基は戦いの経験に乏しく、恐れおののき逃げ散ったということだ。
経基と興世王が立て籠もった「比企郡狭服山」の場所については、諸説紛々としてよく分からない。ここで注目したいのは、「武芝の後陣」が取り囲んだ「経基の営所」である。江戸後期の地誌『新編武蔵風土記稿』足立郡巻十六の「大間村」で、旧跡として「城山」が紹介されている。本日採り上げている場所のことだ。本文を読んでみよう。
将門記等によるに承平八年武蔵介経基足立郡司判官代武蔵武芝と争論和議のことによりて比企郡狭服山に会合の時武芝の後陣故なくして経基の営所を囲む云云と載たれば若くは彼営所と云もの当地なりしも知べからず
確かにしっかりとした土塁に囲まれており、豪族の館跡らしい雰囲気がある。経基の営所にふさわしいように思えるが、中世の土豪の屋敷跡だと言われると、そのようにも思える。
営所は立派なのだが、攻められた経基勢は「驚愕して分散す」という体たらくだ。この点、『将門記』の作者の評価は手厳しく、「未だ兵の道に練れず」と武士としての資質を認めていない。後世、武士の最高ブランドとなった清和源氏も、最初はこうだったということだ。失敗を繰り返しながら成長するのである。