The quick brown fox jumps over the lazy dog.
すばしっこい茶狐はのろまな犬を飛び越える。それで?ではない。これはアルファベットのいろは歌で、すべての文字が使用された短文パングラムである。いったい誰が考えたのだろう。シェークスピアだったら面白いが、よく分からない。
我が国には世界に誇るべきパングラム「いろは歌」があり、作者は弘法大師だと伝えられている。本日はその発祥の地を訪ねたのでレポートする。
出雲市塩冶町の神門寺(かんどじ)の境内に「影向石(ようごういし)」があり、別名を「いろは石」という。
石の近くに説明板はなく、表札がなければ普通の石だ。お寺の入口まで戻って説明板を読んでみよう。
神門寺の由来と歴史
当山は、光仁天皇の勅願所として天応元年(七八一年)宋肇菩薩によって創建され、この年号をもって山号としている。神門寺というのは「出雲国風土記」の神門郡の項にある神門臣の造った新造院がこの辺りにあったためかと思われる。(現在本堂の東北に古い塔の礎石がある。)
二世は伝教大師、三世は弘法大師であり弘法大師がここで「いろは歌」を作られたということから、当山は「いろは寺」とも言われている。以来法嗣は永く密教を厳修していたが三十八世良空上人が法然上人の専修念仏に帰依して上洛し、七条の袈裟と六字名号を授かって帰り、山陰地方における最初の念仏弘通の霊場となった。その後、京都清浄華院の 開山証賢上人(浄土宗三祖良忠上人の門弟)の 門弟明照房が来寺塩冶氏の外護を受けてから当山は尼子氏や毛利氏の外護も受けながら山陰における浄土宗の中心道場となった。
出雲弘法霊場西国壹番
出雲観音霊場五番
中国観音霊場二十三番
昭和五十七年二月 塩冶クラブ
平成五年五月 八十九世住職 明譽
驚愕の事実が記されている。二世住職は最澄、三世は空海だった。しかも、空海はここで「いろは歌」を考案したという。ならば「いろは石」とは何か。この石に腰かけて考えたというのか。影向石として信仰の対象となるのであれば、もっと神聖な要素があるはずだ。調べてみると、松江藩の地誌『雲陽誌』に次のような記述が見つかった。
影向石とて三尺九寸四方の石あり、古老伝曰弘法大師伊呂波を此石の裏にほり付たまひ、本堂の伊呂波若紛失せは末代此石を見よと、側に弘法松あり、大師自植置給ふ松なり、近来枯木となる、抑当山は往昔行基諸州行脚のとき此所に来たまふ、神東の下司帰依して草堂一宇を造立し行基を供養せり、故にしはらく止宿し給ふ、此時七仏薬師を国中に安置す、是皆行基の作なり、当寺の本尊は七仏供養のために彫刻し給ふ阿弥陀仏なり、行基上洛の後肇公といふ唐僧来て住居せり、方丈の弥陀如来はすなはち肇公唐より伝来し給ふ霊像なり、相伝弘法帰朝の後密教を天下に流(しかん)と欲たまふ、偶此州にいたり精基を求て宗風勧学の霊場となり神門寺と号す、天応元年建立故に天応山といふ、弘法以呂波假名を作出し給ふ故に假名寺ともいふなり、大師自筆の以呂波今にいたり、当寺霊宝の第一とて住侶一代一度拝覧をゆるす、
なんと空海が石の裏にいろは歌を刻んでいるという。本堂には大師自筆のいろはがあり、お寺第一のお宝とされ、一代の住職につき一度だけ拝観できる。もし本堂のいろはを紛失したなら、この石を見ればよいとのことだ。いろは石に対する疑問は氷解した。これはまさに信仰の対象であり、柵に囲われていてもよいくらいだ。
諸国行脚をしていた行基がこの地に逗留したことがお寺の始まりで、その後、肇公という唐僧、そして空海がやって来たという。説明板の記述とは少々異同があり、異称も「いろは寺」「假名寺」と違いはあるが、いろは歌発祥の地としての位置付けは古くから変わらないようだ。
さらに注目すべきは、『出雲国風土記』がこの寺の前身について記載していることだ。神門郡条には次のように記されている。
新造院一所。朝山郷中に在り。郡家の正東二里六十歩。厳堂(ごんどう)を建立(た)つ。神門臣等が造る所なり。
ただし、今の神門寺の位置が朝山郷ではないことから疑問視する向きもあるが、門前には「出雲国風土記登場地」の標柱が建てられ、「風土記時代に豪族が造った私寺。」の「新造院」だと説明されている。
不審な点はいくつもあるが、神門寺といろは歌の関係に着目したい。三世住職の弘法大師がいろは歌を考案したからいろは寺と呼ばれているという。この眉唾な伝承より確かなのは、この寺を菩提寺にしていたのが塩冶判官だったことだ。「仮名手本忠臣蔵」において浅野内匠頭に擬せられた人物である。赤穂四十七士はいろは四十七文字との連想から「仮名手本」という外題がつけられた。このため神門寺はいろは寺と呼ばれるようになった。
そう考えてみたものの、『雲陽誌』は「仮名手本忠臣蔵」の初演以前の享保二年(1717)の成立だから、いろは石の伝承はもっと古いのだろう。やはり本当に弘法大師はこの地で「色は匂へど散りぬるを」という深いパングラムを考え出したのかもしれない。