江戸時代になって書かれた軍記物は臨場感があって面白いのだが、必ずしも史実を反映させているわけでない。実際はどうなのかを一次史料で確認する必要がある。当事者が記録を残すことはあまりないが、筆まめな秀吉は戦況報告を国元やねねに送っており、史実の解明に役立っている。
兵庫県佐用郡佐用町佐用に「佐用城」がある。土塁の上に「福原霊社(頭様)」がある。
頭様というからには首級を祀っているのであろう。浜田洋『改訂増補 佐用の史跡と伝説』を調べてみると、「福原霊社御本体」として頭蓋骨の写真が掲載されていた。いったい誰の首だろうか。説明板を読んでみよう。
佐用城(福原城)
中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空掘、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷(くがなわて)の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城とも言われている。
戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
後世、 土地の人々によって、 時の城主福原藤馬允則尚(ふくはらとうまのじょうのりなお)の首級を祀るため城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様)」として今に広く崇敬されている。
秀吉と戦って敗れた福原則尚の首級だという。辞世の歌碑もあり、「死ぬなれば 花の下にと 思ひしに 師走に花の 咲くべくもなし」と刻まれている。西行法師のように「花の下にて春死なむ」と思っていたが、12月なので花が咲くわけねえよな。
広い曲輪の向こうに土塁があり、その背後に堀切がある。ここで、どのような戦いが行われたのだろうか。『佐用郡誌』(大正15年)は福原則尚の最期と頭様の由来を、次のように記している。
城は三方に敵を受け連戦数日間にして十二月一日防御の策尽きて最早如何とも詮術なきに至りければ、則尚も覚悟を定め長子は弟福原勘解由に託し作州勝北郡星尾城主大町主計政常に頼らしめ、二男は旧臣山本吾兵衛尚忠をして作州吉野郡下荘小原町に落延させ、三・四男は岡本・磯部・安藤孫十郎等の郎党に託し暗夜に紛れ負櫃中に隠して作州白水の山奥さして落延びさせ、自ら城に火を放ち同家累代の菩提所高尾山福円寺に至りて自刃す。近臣共其首級を朱詰めとし潜かに城の西方柴谷山の頂上に埋蔵し置きたるを、明和八年三月小原金右衛門霊夢の告により掘り出し旧城址に一小宇を建て首都(かうべ)霊社として奉祀せるなり。
首を掘り出すきっかけとなった夢のお告げは俄かに信じがたいが、信仰の対象だからそのくらいの逸話があってよいだろう。軍記物にはどのように記されているだろうか。『播州佐用軍記』「福原ヵ城攻落之事」には、次のように記されている。
城をば竹中、桑名、英積、中桐等が早乗取たりと、大音声に訇てける。藤馬允遥に是を聞、樊噲(はんかい)と勇む心も忽ち蹇(あしなえ)、打太刀も弱り果、福原も郎従も城え帰事不叶。今は是までとや思ひけん。猶も小寺を目にかけて、大勢の中を打破り、打破て切廻程に、福原が頼切たる郎従残少討れ、福原今は独武者と成分に敵を茲て防戦けるを、終に小寺が手に鎗すわめに成て討れたり。
「竹中」は竹中半兵衛、「小寺」は黒田官兵衛、「藤馬允」は福原則尚である。黒田隊が則尚を誘い出したすきに竹中隊が城を乗っ取り、黒田隊が則尚を討ち取ったという。則尚は樊噲のように知恵と勇気を兼ね備えた武将だったのだろう。頭様と崇敬される理由はここにある。
黒田官兵衛の事績を記録した『黒田家譜』巻之一では、城主の最期を次のように伝えている。新次郎は官兵衛の家人、藤蔵は秀吉に再び仕えようと手柄を欲する浪人である。
新次郎先に取たる二の首を投捨てゝ、鎗を以て藤蔵が鎗付し武者一人突伏せ、敵は打留たるぞ、首取れと云ひけれども、藤蔵気よわり目もくれて、首取る事ならず。新次郎終に首をかき落し、藤蔵が鎗付たる敵なればとて、首をば藤蔵に遣しける。是即城主福原主膳なり。
これより先に城主について「福原主膳助就(助就は下野国那須党なり。後に播州に来る。初名は龍田太郎左衛門と云。)」と説明している。これが正しければ福原氏は赤松一族ではないことになる。『黒田家譜』は軍記物ではないが、必ずしも信用できない。かつての赤松氏の勢いを考えると、福原氏も同族と考えるほうが自然に思える。
城主の死は『佐用郡誌』で自刃だが、『播州佐用軍記』『黒田家譜』では討死である。実際はどうなのか。その名前は則尚か助就か。戦の当事者である秀吉が国元に勝利の報告をしている。秀吉は当時、近江長浜城主であった。(天正五年)十二月五日下村玄蕃助宛羽柴秀吉書状(長浜市重文)の関係部分を抜粋しよう。
去廿七日至作州堺目相動候処、播州佐用郡内ニ敵城三ツ候、其内福原城より出人数、相防候、然者、竹中半兵衛・小寺官兵衛両人先ニ遣候処、於城下、及一戦、数多討取候、我等者ニ平塚三郎兵衛と申者、城主討捕候処、その弟助合候を同討取候、以其競城乗崩、悉不残討果申候事
11月27日に播磨と美作の境目で軍を展開していたが、播州佐用郡内に敵方の城が三つある。すなわち上月城、福原城、利神城である。そのうち福原城から攻撃があったので防戦した。そこで竹中と小寺の両兵衛を先遣隊として送り、城下で一戦して多数討ち取った。我が軍の平塚三郎兵衛が城主を討ち捕らえ、その弟が助太刀に来たがこれも討ち取った。城を一気に陥落させ、城兵を残らず討ち果たしたのである。
城主の最期は自刃ではなく討死が史実のようだ。名前は記されていないので確かめようがない。それでも福原霊社の神威にはいささかの影響はないだろう。外敵から地域を守ろうとする城主と領民の思いをカタチにしたのが「頭様」なのだから。そうあってほしいという願いが歴史として語り伝えられてきたのである。