真備大水害の悲劇を二度と繰り返すまいと急ぎ進められた小田川付け替え工事が完了し、3月27日に記念式典が執り行われた。バックウォーター現象の危険性を鑑み、被災前に工事計画もできていたのだが、自然の猛威は待ってくれなかった。
今回、柳井原貯水池が小田川の新たな流路となり、以前に比べ低水位で高梁川に合流できるようになった。酒津八幡山(さかづはちまんやま)山塊を挟んで西に小田川、東に高梁川という位置関係となる。
ここから話は複雑になる。山塊の西を流れる新たな小田川はその昔、西高梁川だった。いっぽう山塊の東を流れる高梁川はその昔、東高梁川であり、新たな流路で西高梁川につなげられた。高梁川は小田川との旧合流地点から東西に分かれていたのだ。
今の高梁川は東高梁川→新流路→西高梁川と流れ、西高梁川の上流部及び東高梁川の中下流部は廃川となった。そして此度、西高梁川の上流部が河川として復活したのである。
川を廃して、再び川へと戻す。壮大な無駄ではなかったか。二本ある流路を一本にまとめる。洪水を防ぐために新たな流路を開くことがあるが、流路を減らすとは。それは妥当な判断であったか。
倉敷市酒津に「高梁川東西用水取配水施設 南配水樋門」がある。国指定重要文化財(建造物)にして、土木学会選奨土木遺産(東西用水酒津樋門 南配水樋門)、そして近代化産業遺産(高梁川東西用水酒津樋門)である。そして疎水百選(東西用水 高梁川・笠井堰掛)でもある。
15のゲートから3:3:5:2:2の配分で5つの用水に導水されている。国内最大と言われる壮観な光景と競うように咲く桜は、私たちの心を惹きつけてやまない。樋門の少し西に高梁川東西用水組合百周年記念碑(平成二十八年建立)がある。その裏面には、次のように刻まれている。
大正十三年三月 南北の配水樋門及び酒津配水池が完成
大正十三年は1924年、今から百年前である。時代を越える洗練されたデザイン、さすがは国重文だ。
酒津公園の北に「高梁川改修記念碑」がある。大正十四年(1925)の建立である。
これが東高梁川を廃川とした改修である。記念碑のあたりで東高梁川は締め切られ、新たな流路と巨大な堤防が設けられた。なぜ東高梁川は廃川となったか。地理院地図で色別標高図やデジタル標高地形図を確認すると、かつての東高梁川が色の違いで浮かび上がってくる。標高が高い、つまり、天井川だったのだ。
天井川は氾濫しやすい。だからと言って、浚渫するのはあまりにも大変だ。幸いなことに西高梁川という流路がある。ならば東高梁川は廃川にしよう。おそらくそんな思考過程だろう。
しかし、倉敷平野を潤す用水が必要だ。取水源を確保するため、記念碑の位置までの東高梁川上流部は残された。取水源への流量を確保するために、西高梁川の上流部は廃された。そして、本流が西高梁川中流部へとつなげられた。おそらくこんな実情だったのではないか。
現小田川下流部すなわち西高梁川上流部の廃川は、酒津での取水に必要な流量を確保するためであった。そして、高梁川の流路を西高梁川に一本化したのは、天井川で氾濫の危険を抱える東高梁川を廃したからであった。
すべては合理的な理由を根拠とした改修であり、決して経費をケチったおざなりな工事ではない。記念碑の裏面には、次のように刻まれている。
高梁川ハ県下三大川ノ首位ニ在ツテ全国第一期改修二十河川ノ一タリ其
ノ灌漑区域頗ル広ク水利甚ダ大ナルモノアルト共ニ水害区域亦従ツテ広
ク被害劇甚ヲ極メタリキ即チ洪水ニ際シ堤防道路等ノ破壊農作物其ノ他
ノ損耗筆舌ニ絶シ人畜ノ死傷住宅衛生上等ノ損害亦測知スベカラザルモ
ノアリキ是ニ於テ政府観ル所アリ明治四十年改修ノ工ヲ起シ工費七百九
十余万円ヲ計上シテ内務省直轄工事トシ左岸湛井ヨリ右岸秦村ヨリ下流
全部ヲ改修セリ其ノ規模雄大其ノ工事堅牢之ヲ既往ノ事実ニ鑑ミルニ恐
ラクハ将来再ビ惨害ヲ蒙ル憂ナカルベク永ク沿岸一帯ノ福利ヲ増進セン
茲ニ大正十四年四月竣工ヲ見ルニ当リ直接之ガ恵沢ニ浴スベキ吉備都窪
浅口児島四郡四十五箇町村相謀リ此ノ碑ヲ建設シ以テ永遠ノ記念トス
大正十四年四月
河川改修の目的は大きく二つあった。農業用水の確保と氾濫の防止である。二本の流路は一本化されたが、強靭な堤防が築かれた。昭和九年の室戸台風では、旭川の決壊により岡山は水浸しになったが、高梁川下流域は何事もなかったという。
このたび旧西高梁川が小田川の新たな流路として復活した。これで小田川は流れやすくなり、高梁川からの取水もこれまで同じく確保できる。惜しむらくは、平成22年策定の小田川付け替え計画が、同30年の大水害に間に合わなかったことだ。河川は恵みであり、脅威でもある。語り継ぐべき歴史であろう。