旧暦の十月一日というから今なら十一月半ばだ。夜がぐっと冷え込み、山は美しい彩りを纏っている。そんな折、友あり遠方より来たる。幕末の万葉歌人平賀元義のもとへ客人が訪ねてきた。
十月朔日、鴨井耕太郎大銘訪月見之楼小飲
客人(まれびと)に何を示さむ山里の秋の紅葉のこれを示さむ
せっかくのお客だ。何らかのおもてなしをしたいが、あいにく何もない。何もない? いや、この景色こそ最高の歓待ではないか。
倉敷市浦田に「熊山(ゆうざん)先生之墓碣」がある。撰文は森田節斎である。
元義の歓待を受けた客人は鴨井耕太郎、熊山先生である。先生がどう感じたのかは分からないが、小飲して深まりゆく秋を楽しんだことだろう。先生はどのような人物なのだろうか。山陽新聞社『岡山歴史人物事典』にも掲載されているが、ここでは渡辺知水『児島小豆島案内 附宇野讃岐線沿道案内記』(備讃実業新報社、大正二年)を採り上げる。
渡辺知水は郷土史家。観光案内のようなタイトルだが、内容の濃い地誌である。「児島案内」六 開墾地の章には、粒江開墾、福田新田、福田の水害、藤田開墾、児島湾に続いて「鴨井熊山」の項がある。当時はとても有名な人だったのだろう。読んでみよう。
鴨井熊山
耕太郎と称す、福田村浦田に生る、幼にして鷦鷯春齋に師事し長じて菅茶山の門に入りて詩を究め江戸に出でゝ昌平黌に入り古賀侗庵に業を受け学成りて郷に帰り帷を下す、後岡山藩老池田出羽に召されて儒官となり安政四年六月一日年五十五にして歿す、性沈毅人に諛はず、容貌鄙樸にして宛然一田夫の如し嘉政伝聞録其他著述あり。
鷦鷯春齋(かささぎしゅんさい)は西阿知の人。古賀侗庵(こがどうあん)は肥前の人。「帷を下す」とは塾を開いて子弟を教えること。田舎のおっさんのように見えて、落ち着いて物事に動じない人物だったという。
私も容貌鄙樸にして宛然一田夫の如しであるが、性沈毅人に諛はずとはいかない。少しでも見習うことができたらと思い、熊山先生の足跡を訪ねて聊か調べ、記事にした次第である。