反政府行為を正当化し反乱軍の権威を高めるために、皇族が擁立されることは歴史上たびたびあった。古くは恵美押勝の乱における塩焼王、新田義貞が奉じた恒良親王、応仁の乱で山名宗全が擁した南帝などだ。そして、その最後が今日紹介する輪王寺宮公現法親王である。
北茨城市平潟町に「北白川宮御上陸遺蹟」という石碑が建てられている。
北白川宮能久親王は当時、輪王寺宮の13代目で公現法親王といい上野寛永寺の住職であった。『北茨城市史』を読んでみよう。
明治元年一月の鳥羽伏見の戦いでの旧幕軍敗走につづいて、五月に上野で彰義隊が破れると、旧幕府の勢力のより所は、奥羽地方へと移っていった。五月二十八日彰義隊の残党に守られた輪王寺宮能久親王(のち北白川能久親王)が、旧幕府の軍艦に搭乗して平潟へ上陸し、鈴木主水屋敷に休息ののち、会津を目指して去ったが、この突然の事態に、当地方の人々は時局の重大さを知らされ、急にあわただしい動きをみせるようになった。
5月28日に平潟で上陸した親王が鈴木主水屋敷で休息したことがわかる。その前後の様子を小田部雄次『皇族』(中公新書)に語ってもらい全体像をつかもう。
同年閏四月には旧幕臣の一部で結成された彰義隊に、薩長土肥からなる官軍を「四藩兇賊」とする公現親王の令旨が発せられるが、五月一五日には官軍の上野総攻撃により公現親王は根岸、三河島方面に逃れた。官軍は公現親王に懸賞金をかけて江戸中を捜索し、公現親王は羽田沖の軍艦長鯨丸で、旧幕府海軍副総裁榎本武揚の護衛のもと奥羽に脱出した。公現親王は帰順しても身の安全を確保できないと判断し、奥羽で時機を待とうとしたのである。
こうして一八六八(慶応4)年六月六日、公現親王は会津若松に逃れる。会津藩主松平容保は公現親王を奥羽越列藩同盟の盟主に担ぎ、出家の身であるので軍事命令は行わせないが、大義の旗を掲げ、君側の奸を除き、慶喜の冤罪を覆すといった方針を立てさせる。
奥羽越列藩同盟は、公現親王の仮居を列藩同盟府のある白石城に構えるとし、奥羽の旧幕府領を賄いに当て、彰義隊の警護を受けるなど、新政府に対抗する政権として整えられていった。さらには、公現親王の盟主就任の六月一六日に大政元年と改元し、公現親王を即位させて「東武皇帝」とする案もあったという。
石碑の立つ坂道を上がったところに鈴木主水屋敷がある。商港として繁栄した平潟の浦役人を務めた家である。写真の日付の頃には人が住まわれていたが、その後荒れているという。
長鯨丸による船旅から久々に上陸し、この屋敷で休息した親王は、その日のうちに陸路北上して奥羽入りする。いわき市泉町玉露の子安観音堂には「明治戊辰五月廿八日北白川宮能久親王御遺蹟」と刻まれた石碑が立つ。この場所に泊まられたことを示すのだろう。碑文の揮毫は正三位勲一等侯爵小松輝久によるもので、小松は親王の第4王子に当たる。
平潟は輪王寺宮公現法親王が「東武皇帝」への一歩を踏み出した地点である。しかし即位も改元も幻に終わり、9月には仙台藩とともに降伏することとなる。それでも親王の平潟上陸は、第二次世界大戦のノルマンディ上陸、朝鮮戦争の仁川上陸、日本の例がよければ神武東征の熊野上陸となったのかもしれないのだ。千里の道も一歩から。成功への道程の一歩は称賛されるが、成功しなかった一歩も同様に美しいものだと思う。