南北朝の争乱は「一天両帝南北京」、まさに日本を二分する異常事態、皇位を巡る天下分け目の戦いである。ところが、大河ドラマに『太平記』が取り上げられたことがあるとはいえ、歴史ファンの人気はそれほどでもない。その理由として、一つには登場人物が多すぎること、もう一つは時間がかかりすぎること、さらには話の筋が複雑であること、が挙げられよう。
南朝の忠臣が皇威発揚に利用されたことも敬遠されてきた理由だろう。しかし、忠臣は悲壮なまでに一途な戦いを見せて涙を誘う。お国のため、会社のためという「忠」の精神が薄れゆく昨今、逆に新鮮な物語かもしれない。
姫路市別所町北宿に「六騎塚」がある。「贈正四位児島範長御墓所」の石柱がある。
児島範長とは何者なのか。贈位されていることから国家への功労あるいは天皇家への忠義をなした者だろう。また「六騎塚」とは何か。六騎そろって討死ということなのか。説明板を読んでみよう。
南北朝時代の延元元年(一三三六)児島高徳の父範長主従六人の自害を弔って建立したと伝えられる。
亀趺(きふ)とよばれる亀形の台上に碑が建てられており、正面に「備後守児嶋君墓」裏に「嘉永三庚戌年五月十九日左和田清左衛門範一建之」と刻されている。
『太平記』巻十六によれば、延元元年足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦に敗れ、最後に主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したという。
嘉永三年といえば1850年、尊王思想が浸透し時代は動きだそうとしている。忠臣児島父子に注目する気運は高まってきた。建立者の左和田氏は澤田(沢田)氏で児島一族の末流(高徳の二男高久の流れ)らしい。
さて、物語の舞台は延元元年(1336)である。いったんは敗れて九州へ下った足利尊氏は、都に攻め上るべく、鞆の浦で弟・直義と二手に分かれる。尊氏は瀬戸内海を進み、直義は山陽道を進んだ。直義は新田義貞勢の大井田氏経と備中福山城(今の総社市)で激突、氏経は敗走する。
この時、西川尻(今の岡山市)で氏経を掩護していた和田備後守範長(児島範長)は、福山城が落ちたと聞き、三石(今の備前市)で味方と合流しようとした。しかし、あてにしていた味方が播磨へ引いたと聞き、播備国境を越えて坂越(今の赤穂市)に出た。さらに、新田義貞と落ち合うため、山陽道へと出ようとしていた。その時のことである。
『太平記』巻第十六「備中福山合戦事」の一部を読んでみよう。ちなみに範長の子で有名な児島高徳は、負傷のため坂越あたりにかくまってもらっているので、ここでは登場しない。
去程に此道より落人の通りけると聞きて、赤松入道三百余騎を差遣して、那波辺にてぞ待せける。備後守僅に八十三騎にて、大道へと志して打ちける処に、赤松が勢とある山陰に寄せ合ひて、「落人と見るは誰人ぞ。命惜しくは弓をはづし、物具脱ぎて、降人に参れ」とぞかけたりける。備後守是を聞きて、から/\と打ち笑ひ、「聞きも習はぬことばかな、降人になるべくは、筑紫より将軍の様々の御教書を成して、すかされし時こそならんずれ。其をだに引さきて火にくべたりし範長が、御辺達に向ひて、降人にならんとえこそ申すまじけれ。物具ほしくば、いでとらせん」といふまゝに、八十三騎の者ども、三百余騎の中へ喚きて懸入り、敵十二騎切りて落し、二十三騎に手負せ、大勢の囲を破りて、浜路を東へぞ落ち行きける。赤松が勢案内者なりければ、懸散されながら、前々へ馳せ過ぎて、「落人の通るぞ、打留め物具はげ」と、近隣傍庄にぞ触れたりける。依之其辺二三里が間の野伏ども、二三千人射合ひて、此の山の隠、彼処の田の畷に立ち渡りて、散々に射ける間、備後守が若党共、主を落さんがために、進みては懸破り、引下りては討死し、那波より阿弥陀が宿の辺まで、十八度まで戦ひて落ける間、打ち残されたる者、今は僅に主従六騎に成りにけり。備後守或辻堂の前にて馬を控へて、若党共に向ひて申しけるは、「あはれ一族どもだに打ち連れたりせば、播磨の国中をば安く、蹴散して通るべかりつるものを、方々の手分に向られて、一族一所に居ざりつれば、無力範長討たるべき時刻の到来しけるな。今は遁るべしとも覚えねば、最後の念仏心閑に唱へて、腹を切らんと思ふぞ。其程敵の近づかぬ様に防げ」とて、馬より飛びて下り、辻堂の中へ走り入り、本尊に向ひ手を合せ、念仏高声に二三百返が程唱へて、腹一文字に掻き切りて、其刀を口に加へて、うつぶしに成りてぞ臥したりける。其後若党四人つゞきて自害をしけるに、備後守がいとこに、和田四郎範家といひける者、暫く思案しけるは、「敵をば一人も滅したるこそ後までの忠なれ。追手の敵若し赤松が一族子共にてやあるらん。さもあらば引組みて、差違へんずるものを」と思ひて、刀を抜きて逆手に拳り、甲を枕にして、自害したる体に見せてぞ臥したりける。此へ追手懸りける赤松が勢の大将には、宇弥左衛門次郎重氏とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳せ来りて、自害したる敵の首をとらんとて、是を見るに、袖に着けたる笠符(かさじるし)、皆下黒(すそぐろ)の文なり。重氏抜きたる太刀を抛げて、「あらあさましや、誰やらんと思ひたれば、兒島、和田、今木の人々にてありけるぞや。此の人達と疾く知るならば、命に替へても助くべかりつるものを」と悲みて、泪を流して立ちたりける。和田四郎此声を聞きて、「範家是にあり」とて、がばと起きたれば、重氏肝をつぶしながら立ち寄りて、「こはいかに」とぞ悦びける。軈(やが)て和田四郎をば、同道して助けおき、備後守をば、葬礼懇に取沙汰して、遺骨を故郷へぞ送りける。さても八十三騎は討れて、範家一人助りける、運命の程こそ不思議なれ。
「山陽道へと落武者が向かっている」そう聞いた赤松円心は300騎余りを那波(今の相生市)の辺りで待ち伏せさせた。これに対して和田範長はわずか83騎であった。
赤松勢が「落武者やな。命が惜しいんやったら弓矢や具足を置いて降参せんかい」と言えば、範長はかっかと笑って「何言っとんじゃ。降参は尊氏殿の御教書によってするもんじゃろう。それでさえ破いて火にくべた儂が、おめえらに降参しますとか言うわけねかろうが。具足が欲しいんならやるで」と答えた。
範長ら83騎は300騎余りの中に突撃して、12騎を倒し23騎を負傷させ、敵中を突破して東へと進んでいく。土地勘のある赤松勢は先回りして「落武者が通るで。捕まえて武装解除や」と触れ回った。
このため近隣の野武士が二三千人集まって、散々に範長らを攻撃してきた。郎等は範長を守るため必死で防戦し、那波から阿弥陀宿(今の高砂市)までの間に18回戦闘した。郎等を次々と失い、ついに、わずか6騎となってしまったのである。
範長はある辻堂の前で馬を止め郎等に告げた。「くそっ、儂ら一族を引き連れとったら、播磨のどこでも蹴散らかして通っちゃるのに。今は一族バラバラじゃから、儂も討たれる時がついに来たのう。逃げることはできんと分かっとる。最後の念仏を心静かに唱えて、腹を切ろうと思う。敵が近付かんように防いでくれ」そう言うや、馬から飛び降り辻堂の中に入って本尊に手を合わせ、念仏を声高に2、300回唱えて、腹を一文字に掻き切り、その刀を口にくわえてうつ伏せになって自害した。
続いて郎等4人が自害したのだが、範長のいとこに和田四郎範家という者がいた。範家はこう考えていた。「敵を一人でも倒すことこそ忠義というものだ。追ってくる敵にはおそらく赤松の一族だろう。そうなら組み付いて刺し違えてやろう」そして、刀を抜いて逆手に握り、カブトを枕に自害したように見せて伏していた。
ここへ来た追っ手の赤松勢の大将は宇弥左衛門次郎重氏といって和田の親戚である。辻堂の庭に入り自害した敵の首を得ようとしてよく見ると、袖に着けた目印はみな下黒の紋であった。重氏は抜いた刀をほうりだし「何ということだ。誰かと思えば、児島、和田、今木の人々であったか。これらの人たちと早く知っていたなら、命に代えても助けていただろうに」と涙を流して悲しんだ。
範家はこの声を聞いて「範家はここにおるで」とガバッと起き上がったものだから、重氏は肝をつぶした。そして近付き「これはどういうことだ」と喜んだのであった。
重氏は範家を連れてかくまってやり、範長の葬儀を丁重に行って遺骨を故郷へ送った。83騎が戦って範家一人が助かった。運命は本当に不思議なものである。
範長の名字は「児島」か「和田」かややこしいが、有名な児島高徳の実父は和田範長自身だとも、児島の五流尊瀧院の頼宴大僧正で母が和田範長の娘だともいう。和田氏は邑久郡(今の瀬戸内市)の豪族である。高徳は児島を名乗ったのかもしれないが範長は和田であろう。写真の墓碑銘が「児島」になっているのは高徳から遡及して同姓とされたのだろう。
和田範長、後世にいう児島範長は、南朝への忠義により明治36年11月に正四位を贈位されている。時代は忠君愛国へ向かっていた。
ところで、今日紹介した史跡は「六騎塚」だ。しかし『太平記』によると、最後の6騎の中で、範家が生き残ったから、自害したのは5名である。ならば「五騎塚」か?
細かいことより尽誠の大義に目を向けよう。自らの信ずるところにしたがって行動する。簡単なようで、できないことでもある。児島範長の墓所においても、誠を尽くすことの大切さと難しさを教えられるのであった。