石油や金属に並んで、石材も貴重な資源である。石は鉄のように鋳潰してリサイクルできないから、その形状を生かして上手く再利用する。このブログでも、古墳時代の石棺の転用を紹介したことがある。
今日紹介するのは、塔の心柱を支えていた岩を、手水鉢(ちょうずばち)に加工している例である。単にユニークな例として紹介しているのではない。奈良時代の国家プロジェクトに関係することに加え、武田信玄の一族も登場する由緒ある岩なのである。
静岡市葵区沓谷(くつのや)の菩提樹院(ぼだいじゅいん)の境内に「伝駿河国分寺の塔心礎」がある。市指定有形文化財(考古資料)である。
奈良時代の聖武天皇は、自らの鎮護国家構想を具現化するため、国分二寺建立事業を全国的に展開した。飢饉や疫病が相次ぐなか、仏教の求心力を活用して人心の動揺を抑えようとしたのだろう。
これほどの大事業であっても、長い長い歳月を経て、その痕跡すら不明となった僧寺・尼寺も多い。
菩提樹院は国分尼寺の法灯を受け継ぐという古い寺であるが、ここに国分尼寺があったのではない。菩提樹院は天正年間と昭和21年に移転して現在に至っている。古代の国分尼寺があった場所はまったく不明である。
菩提樹院の手水鉢は国分寺の塔心礎だというが、国分寺がここにあって七重塔がそびえていたわけではない。塔心礎は手水鉢に加工されてから、ここに運ばれてきた。
幸いなことに、駿河国分寺の場所は明らかになっており、静岡市駿河区大谷の片山廃寺跡(国指定史跡)だとされている。今日話題にしている塔心礎は、この廃寺跡にあったのだろう。
詳しいことが説明板に書いてある。読んでみよう。
この石の上面には、直径一m前後、高さ約二十cmの柱座(ちゅうざ)状の高まりがあり、そのほぼ中央部に長径四十六・五二cm、短径三十五cmの楕円形の孔(あな)が掘られている。しかし、もとは直径三十四cmの円形であったことが孔を穿(うが)った鑿(のみ)の痕跡からわかる。本来は寺院の塔の心礎(しんそ)として用いられたもので、中央の孔は釈迦(しゃか)の骨を入れる舎利孔(しゃりこう)であったと考えられる。この舎利孔の大きさは、甲斐や伊豆の国分寺のものとほぼ同じである。石の表面に刻まれた銘文によれば、明和八年(一七七一)に、時の駿府城代武田越前守信村によって駿府城三ノ丸城代屋敷内にあった社(やしろ)の手水鉢(ちょうずばち)として奉納されたものであることがわかる。その際に、水溜めにするため円形の孔を現在の楕円形の大きさに拡げたようである。
昭和五年(一九三〇)に、当時駿府城内にあった日本赤十字社静岡支部の庭(現在の県総合福祉会館所在地)にあるのが発見され、昭和二十八年駿河国分尼寺の後身という伝承をもつ菩提樹院へ寄進された。
塔心礎には文字が刻まれている。「明和八辛卯年正月」「武田源信村」、そして正面に「奉」という一字である。説明にもあるように、駿府城代の武田信村(のぶむら)が明和八年(1771)に、城代屋敷内の神社に奉納したのである。城代屋敷は現在の静岡市クリエーター支援センターのあたりだ。
武田信村は、武田信玄の弟、信実(のぶざね)の系譜に連なる旗本である。明和五年(1768)から安永七年(1778)まで駿府城代を務めた。信村も含めた武田氏一族の墓域については、以前にレポートしているので参照してほしい。
片山廃寺跡にあった塔心礎を動かしたのが信村かどうか分からない。手水鉢に加工したのは確かだ。今なら文化財の損壊となるが、信村が自身の名を刻んだことは、むしろ塔心礎の付加価値となった。
かつて国分寺の七重塔を支えていたであろうこの岩は、今、国分尼寺の流れをくむ古刹の手水鉢となっている。用途や位置が変わっても、天皇の願う国家安泰、駿府城代の願う城下町繁栄を語り伝えているのである。