いったんは7点差、9回も2アウトまで追い込みながら、逆転サヨナラで敗れ去った八戸学院光星。エース桜井をして「全員が敵なのか」と言わしめた激闘であった。勝負の厳しさとはこういうことなのだ。
いっぽう『真田丸』では、山本耕史の石田三成が家康との対立を深め、いよいよ関ケ原の決戦が近付いてくる。秀吉存命中、三成は「かしこまりました」と常に冷静沈着に事を運んできた。国家の安定を第一義と考え、秩序を乱す動きを封じようとしたのだ。秀吉政権は三成政権であったかと思えるほどに、その手綱さばきは鮮やかだった。
その三成(官名は治部少輔)をうたった俗謡に、「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」というのがある。あの三成めにはもったいないわ、と周囲の武将に言わしめたほどの家臣がいた。それが嶋左近である。関ケ原で討死することとなるが、今日はずいぶん前の話である。
先月1日、嶋左近に関する新発見があったと東大史料編纂所と長浜城歴史博物館が発表した。左近の書状二通である。天正十八年(1590)の小田原の陣直後に、三成の配下として佐竹氏と今後の打合せをしているのである。嶋左近の文官的側面を示す貴重な資料だそうだ。
奈良県生駒郡平群町椿井(つばい)に「椿井城跡」がある。のぼり上部に染め抜かれた家紋は「三つ柏」紋である。
登城口に「左近くん」が門番のごとく立ちはだかっていた。このキャラクターは平群町出身といわれる嶋左近をモデルにしており、兜の吹返しに描かれた紋は「三つ柏」である。
嶋左近の出で立ちは、想像ではあるが根拠がある。江戸時代中期に成立した湯浅常山『常山紀談』巻之十三「関ケ原合戦島左近討死の事」の次の記述だ。
左近、冑(かぶと)の立物、朱の天衝(てんつき)、溜塗桶、革胴の甲(よろひ)に、木綿浅黄の羽織を著たりし
この記事は、黒田長政の家来が関ケ原の戦いを回想しているのだが、このようにも言っている。
石田が士大将、鬼神をも欺(あざむ)くと言ひける島左近が其日の有様、今も猶目の前に在るが如し
左近は敵にかなり強烈な印象を残しているようだ。「猛将」と呼ばれるのも、このような証言に由来するのだろう。
今日紹介している椿井城は、嶋左近が築いたという。地元で発行された『平群谷の驍将 嶋左近』(坂本雅央著、平群史蹟を守る会、平成20)には、次のように記されている。
左近が椿井城の修築に手を付けたのは天正四年五月~六月頃で、一応の完成を見たのは翌五年四月頃ではないかと推測する。
なるほど、こうしたゆかりで「左近くん」が登城口に立ち、城跡の紹介をしているわけだ。説明文を読んでみよう。
椿井城跡
矢田丘陵の南端近くの東稜線上に築城された南北三百メートルの中世山城。椿井氏や嶋氏、松永氏が築城に関わったと考えられています。
土橋や土塁、堀切等が良く残り、平群谷を一望にできます。一部に石垣がみられ、完形の丸瓦が採取されるなど、現在遺構は松永氏の整備になる可能性が高くなっています。
なにしろ高い位置にあるので見晴らしがよい。平群谷をはさんで遠くには、梟雄(きょうゆう)として知られる松永秀久の信貴山城を望むことができる。
説明板の文言のうち、「遺構は松永氏の整備」だというのは、聞き捨てならない。嶋左近が築いたのではないのか?
年代を追いながら状況を説明しておこう。松永秀久が信貴山城に入ったのが永禄二年(1559)。左近の主、筒井順慶に信長が大和の支配権を認めたのが天正四年(1576)。秀久が信長に反旗を翻し、信貴山城に滅んだのが天正五年(1577)。信長が大和に破城令を出し、椿井城が終焉を迎えるのが天正八年(1580)。
嶋左近が天正四、五年に椿井城の修築を行ったとする説は、松永秀久に睨みを利かせるためだとする解釈である。しかし、考古学的には松永氏による整備の可能性が高いという判定だ。
嶋左近と椿井城とに関係があるとするなら、可能性があるのは、秀久滅亡後の天正五年から椿井城破城の天正八年までとなる。しかし、証拠となる確実な史料はない。
椿井城のふもと、平群町平等寺に「平等寺館跡」がある。位置関係から椿井城主が日常生活をしていた居館と考えられる。嶋左近もここに暮らしたとする向きもあるが、果たしてそう言えるのか。
猛将・嶋左近ゆかりの地として紹介を始めたのだが、椿井城をめぐる左近の動向には確実な証拠がない。むしろ、椿井城に影響力があったのは松永秀久である。居城の信貴山城も平群町域にあるのだから、地元で「秀久くん」と親しまれてもよさそうだ。
しかし実際には「左近くん」が、地元キャラとして採用されている。おそらく、人は梟雄よりも猛将を好むということなのだろう。後世の人々に愛されることが、歴史人物にとっての幸せなのかもしれない。